(2016.07.17公開)
昔から物忘れが多い。いや正確に言うと、昔は「忘れ物」が多かったのが、最近では「物忘れ」がひどい。その物忘れのひとつに、何かの文献で見かけた言葉に関するものがある。気になって仕方がない。
それは「明日まで延ばせることは今日するな」という言葉についてである。最近見かけたその言葉を誰が発言したのかについての情報を忘れてしまった。おそらく啓蒙時代のスコットランドのことで何か調べものをしていたときに見かけた言葉で、ある保守的な政治家の発言だったとうっすら記憶している。しかしもう、それが誰だったか、スコットランド人なのかイングランド人なのか、また誰が書いた何の文献で、いつどこで見かけたのかも、一切合切忘れてしまった。
「明日まで延ばせることは今日するな」という言葉に最初に注意が引き寄せられたのは、私の尊敬する芸術家松井利夫さんから御尊父がそうおっしゃったと聞いたときである(ただし、それも私の記憶違いだったようで、本当は彼のイタリア人の友だちの言葉らしい)。一見、怠け者のモットーのようでありながら、何かまた大事なことのような気がして、ただしそのときはそのままになって忘れてしまっていた。それを先ほど記したスコットランド関係の何かの文章で見かけて思い出したわけである。
勿論、これは、より有名な「今日できることは明日まで延ばすな」という格言の裏返しである。「今日できることは明日まで延ばすな」という言葉は、誰が最初に使ったのか、私にはまだ突き止められていない。オックスフォードの『ことわざ辞典』The Oxford Dictionary of Proberbs によると、チョーサーの『カンタベリー物語』のなかのメリベの話(Tale of Melibee, 1386)にある、「古いことわざにあるように、今日できる善は今日せよ、そして明日まで延ばすな」という文句が英語での最初の表現らしい。これは妻と娘を殴られて復讐心に燃える夫メリベを、妻のプリュデンス(賢明さ)が被害者であるにも拘わらずやさしく諭し、仇敵と和解させようとするなかで、夫の回心の機会を捉えて発せられる言葉である。また、同じ『ことわざ辞典』では、それに先立つ同じく十四世紀のフランスのことわざ「朝にできる善は晩や明日を待つな」もあるとのことである。たしかに、このことわざは、チョーサーが下敷きにしたルアンのルノーの作「メリベの本」(Renaud de Louhans (Louens), Le Livre de Mellibée, 1337)では、その字句通りに引かれている。ところが、さらにその元ネタである十三世紀ブレシアのアルベルターノの物語「慰めと助言の書」(Albertanus, Liber Consolationis et Consilii, 1246)では、「うまくできることは先送りにするな」quod bene potes facere, noli differre という格言になっていて、「明日」という表現がない。おそらく、フランス語版の作者(ルノー)が十四世紀半ばにすでに流通していたことわざの言い回しに翻案したのであろう。もっとも、「今日できることは明日まで延ばすな」という言い方と「朝にできることは晩に延ばすな」という言い方も違うといえば違うが、こうした文句は韻の踏みかたの都合でいくらでも変えられるので、まあ誤差の範囲だろう。ちなみに、今日、明日ということで言えば、聖書の「マタイによる福音書」にある「明日のことは明日が思い煩う、今日には今日の面倒がある」という言葉(Matt.6:34)も、「今日の善行に専念せよ」という意味にとれる、近い内容の言葉である。今日、明日という語がことわざに使われた遠因かもしれない。また、今日、明日という表現は、オウィディウスの「恋の妙薬」(1世紀初)の「今日用意できていないことは明日はもっと用意できていない」Qui non est hodie, cras minus aptus erit. という詩句にも見られる表現である。病にかかって時間が経つと、その病がしっかりと根を下ろしてしまう。だから恋の病も早いうちに治せ、という意味である。これはさらに古い可能性もある。十六世紀の軍人ブレーズ・ド・モンリュックは、戦争の要諦として「今日できることを明日に延ばすな」という「アレクサンドロス大王の格言」を忘れないよう注意する(Blaise de Monluc, Commentaires, II, 1545)。相手に休む暇を与えず恐怖心を持続させるよう、常に行動せよ、というわけである。アレクサンドロスの言葉なら紀元前四世紀に遡ることになる。ただ、アレクサンドロスが本当に使ったかどうかはわからない。そもそも、今日できることはすぐにやれ、というのは誰の言葉というより、常に語られてきたことだろうし、起源を尋ねてもしかたがないだろう。
最初に使った例が突き止められないとしても、もっとも有名なのはやはり十八世紀のアメリカ人ベンジャミン・フランクリンのそれであろう(Benjamin Franklin, Poor Richard’s Almanack, 1757)。少し後の第三代大統領ジェファーソンの言葉としても伝えられることがある。また日本でも広く読まれたサミュエル・スマイルズの本(Samuel Smiles, Self Help, 1859, 邦題『西国立志編』明治四年)では、あるフランスの大臣の言葉として引用されている(第九編)。激務をこなす一方で自分の愉しみの時間も確保するための秘訣としてである。
ここでスマイルズがフランスの大臣に帰している言葉には、実はそれとそっくりな先例がある。それは十八世紀イギリスの政治家チェスターフィールド(四世伯)が自分のこどもにあてた手紙にある。そこではオランダの敏腕政治家ヤン・デ・ウィットの言葉として引かれている。「1672年に八つ裂きにされたデ・ウィットは共和国〔オランダ〕のすべての仕事をなしつつ、しかも夕べの集いや会食に出かける時間を残していた。どのようにして彼がそれほど多くの仕事をこなしながら、彼が実際そうやっているように、晩に愉しむ時間を見つけられるのかを尋ねられると、彼はこう答えた。これほど簡単なことはない、そのためには一度にただ一つのことだけをする、そして今日できることは何であれ決して明日まで引き延ばさないことだ、と」(4th Earl of Chesterfield, Letters to his son, 1747年4月14日付)。
なお、先の『西国立志編』では、「今日できることは明日まで引き延ばさない」の言葉にすぐ続いて、同書で精励恪勤の鑑として描かれるブルーアム卿の言葉が続いている。ブルーアムが皮肉るところによれば、あるイギリスの政治家の行動指針は「明日まで延ばせることは今日するな」だそうである。世間では大概こちらをモットーにしている人が多いらしい。このブルーアム(Henry Brougham, 1778-1868)はスコットランド出身の政治家である。最初に書いたように、私が何かのスコットランド関係の文献で見かけたような気がしたのは、ひょっとしたらこのブルーアムの言葉だったかもしれない。しかしどうにもはっきりしない。
ところで、先の「マタイによる福音書」の言葉、「明日のことは明日が思い煩う、今日には今日の厄介ごとがある」は、「今日の善行に専心せよ」という読み方ではなく、「明日のことを思い煩うな」という文字通りの意味にもとれる。そうすると「明日できることは今日するな」に近くなってしまう。ひょっとしたら「明日まで延ばせることは今日するな」という言葉は聖書の文句を口実にしたものなのかもしれない。また、やや言い方が違うが、それによく似たさらに古いことわざがある。プルータルコス『対比列伝』ペロピダース篇の伝えるところでは、紀元前四世紀のテーバイの僭主アルキアースは叛乱の陰謀を伝える緊急の手紙を受け取った。しかし宴会の最中だったため「まじめなことは明日に延ばそう」と言って、それを読まなかったらしい。すぐその後で、宴席に呼ばれた娘たちが到着し、酔っ払いたちが歓声を上げて迎え入れたが、実はそれは女装した暗殺者たちだった。それ以来、ずっと(つまり紀元後二世紀初にも)ギリシャ人の間でことわざとして使われているそうである。
しかしまた「明日できることは今日するな」という言葉は、大事なことをぐずぐず引き延ばす政治家の信条というだけでなく、いかにも説教臭い「今日できることは明日まで延ばすな」という格言への反動でもある。松井利夫さんの友人だけでなく、村上龍の本のタイトルでもあるし、遠藤周作(というより彼が引くトルコの格言)やサッカレーも同じような言葉を残したらしい。あえて教訓をひっくり返すと、いかにも深遠な気がしてくる。
そしてこれは反逆のスローガンにもなる。こども向けの詩を残したランズは、『リリパットの謁見』の中で、革命を起こしたこどもたちの支配する国をこう描いている。「こどもたちは一番怠け者の子に賞を出した/一番すばらしいおもちゃに賞を出した/笞を割き、燃やした/彼らはリリパットの国に新しい法律を作った/決して今日してはならない/お前が明日まで延ばせることは/法律のひとつはそうだった/遅く床に就き、遅く起きること/それが彼らの発明したもうひとつの法律だった」(William Brighty Rands, Lilliput Levee, London, 1864、画像参照)。
いろいろと語られてきた「明日できることは今日するな」のなかでも、不意を突かれ、納得もしたのが、十八世紀のアメリカの軍人、法律家、政治家アーロン・バー(Aaron Burr, 1756-1836)の言葉である。彼の伝記作家(Mathew Livingston Davis, Memoirs of Aaron Burr, 1855)によれば、バーはこう語った。「今日できることを明日まで引き延ばすな、ということわざがある。これは怠け者のための格言である。これをより良く読み解くならば、こうなるだろう。明日も同様にできることであれば今日するな、と。なぜなら、何かが起きて先走った行為を後悔させることになるかもしれないからである」。これは彼の法律家としての活躍を述べる中で、係争で相手を息もつかせず徹底的に責め立てたのち、妥協の際にはゆっくりと、慎重に交渉せよ、という彼の言葉に続けて引用されている。そもそもは司法の場でのやりとりが念頭にあった言葉かもしれないが、日頃から軽率なことばかりして後悔が絶えない自分にとって、これは身に沁みる言葉である。ちなみにバーという人物はアメリカ独立戦争にも参加し、ジェファーソンのもとで副大統領も務めたが、何かと活動的で、論敵を決闘で殺してしまい、しばらく逃げ回ったこともある。また彼は上述のチェスターフィールドの愛読者でもあった。伝記作家は独創的で賢明な言葉として礼讃しているが、ひょっとしたら、バー自身が明日まで延ばしておけば良かったことをすぐにしてしまうことが多い人物で、そういう自分を戒めた言葉かもしれない。
おまけにもうひとつ、それに似た例を挙げよう。それはモンテルランの戯曲『スペインの枢機卿』(Henry de Montherlant, Le Cardinal d’Espagne, 1960)のなかで、政務を急かされる女王が言う科白である。「常にすべてを明日に延ばさなくてはならない」と女王は言う。なぜなら「ものごとの四分の三は放っておいても自然と片付く」のだから。なるほど、これは心強い! ぜひ覚えておこう。
しかしまだすっきりしない。「明日できることは今日するな」は、ブルーアムでもバーでもトルコ人でもない、また他の誰かの言葉でもあったような気がする。ああ、思い出せない。残念だ。こんなことならその文句を目にした瞬間にきちんとメモを取っておけばよかった。あとでまた読み返せばよいと思ったのが間違いだ。明日できることは今日するな、というのは真実かもしれないが、明日になれば忘れてしまうことは今日やっておかなくては。あぁ! そういえば、明日がこの原稿の締切だった。