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アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

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#345

0.5次元分のナマ肉
― 上村博

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前回に引き続き、次元の話である。次元の話とはいえ、ちょっと次元が違う次元の話である。2次元と3次元のあいだを指す、2.5次元という言葉がある。2次元の作品(漫画やアニメなど、ディスプレイ上で2次元表示される作品)を下敷きに、3次元の作品(舞台や、これは厳密には2次元だろうが、実写版の映画など)を作る場合に2.5次元という言葉が使われる。2次元と2.5次元の差は、単に立体的であるかどうかではない(アニメの舞台化なら、2次元を3次元にしたというだけである)。「2.5」というあわいの数字が使われるのは、3次元というよりも、もっと2次元に近いからにほかならない。しかもまったく2次元というわけではなく、0.5次元分は別次元なのである。それではその0.5次元分のところには何があるのか。それは、「平面か立体か」ということではなく、「フィクションかリアル」か「人工物かナマものか」あるいは「視覚的な経験か全身的な関与か」という問題ではなかろうか。

なま、生、ナマ。いま、ナマモノが世にはびこっている。冷蔵装置や運輸網のおかげで、ナマモノが簡単に手に入るようになった。加工されることのない、新鮮で、柔らかい食べ物はスーパーにもコンビニにも溢れている。とてもありがたい。いまや海から遠い京都でも生魚は普通にみかけるし、生野菜でも生肉でもナマの食材には事欠かない。食材としてだけでなく、料理され、食膳に供されるものとしても、サラダや刺し身は全く普通のおかずである。甘いものの世界も生は大人気である。生クリームに生チョコレート、生キャラメルに、生八ツ橋なんていうものもある。生クリームはナマのまま供されるそう呼ばれるというより、成分の問題だが、「生」と冠することで、自然のままな感じが強調される。生クリームの新鮮で手が加えられていないという語感に対して、あとの三者の「生」は柔らかさという食感が強く意識される。焼き菓子だった八ツ橋はともかく、チョコレートやキャラメルなどは、もともとは液状の飲料、食材のはずだが、いつしかカチンカチンに固められ、携帯に便な菓子に様変わりした。勿論、暑い場所にあれば自然と柔らかくなりそうではあるものの、普通にうっかり固形のまま齧りつくと、思わぬ抵抗に歯が痛むのだろう。そこであたかも祖先帰りするかのごとく、抵抗のない、ぐにゃぐにゃの半ば流動食が誕生してしまった。ここでのナマが柔らかさを意味するのは、もともとの新鮮さという意味でのナマが「みずみずしさ」や「しなやかさ」という、動植物の生きた体(あるいはつい最近まで生きていた体)の属性を持っていて、しなびた、硬くなったモノとは対極のモノを指すからだろう。干物の硬さに対するナマモノの柔らかさである。

ところで、ナマが喜ばれるのは食品だけでない。ナマの演奏、ナマの舞台など、芸術の領域でもその場で作品の生成に立ち会うことが「ナマ」(ライヴ)と呼ばれる。音楽や演劇はもともとその場で演じられるものだったので、そういう言葉がことさらに使われるのは、勿論、録音、録画、放送が当たり前になってからのことである。しかし、ナマ中継ならまだわかるが、ナマ録音とかライヴ録画とかは一体何だろう。ナマの演奏を録音したのであれば、もはやナマではないようにも思うが、まあ、視聴者のもとに届けられるパッケージされた商品なり放送番組は編集加工が普通に行われるので、そうした手を加えない一発勝負、本番そのままの録音、録画ということだろう。
むかし、カナダのピアニストでグールドという大変に癖の強い人がいた。彼は、演奏に完璧を期すあまり、いろいろと夾雑物の多い生演奏よりも録音に専心した。たしかに勿論、それができたのも、グールドという、非常に評判の高い、かつ個性的な演奏家の振る舞いがあってのことである。彼の録音には単に音の純粋な運動というよりも、やはりそこには彼の極端に姿勢の悪い演奏風景や彼ならではの節回しといった、生身のグールドの作り出す音楽という匂いを消すことができない。如何に編集の手が加わっていても、ナマの演奏家の身体はどこかに残る。とはいえ、それはどこかには残っているというぐらいのことで、やはり加工品である。ナマ身の演奏家と時と場所を同じくしてナマの演奏に立ち会うのとは、かなり違う。生演奏につきものなのは、偶然や失敗成功の予見できなさだけでなない。作り上げられた音の世界に侵入してくる雑音、雑談、ため息、咳払い、唸り声、また音だけでなく、演奏家の容姿、立ち居振る舞い、さらには汗や体臭のようなものまでが、ナマの演奏空間に飛び交っている。
音楽という芸術的構造体を認知するのであれば、ノイズキャンセラーつきのイヤホンを装着し、ひたすら聴取に集中すればよい。そんな便利なものがあるのに、ナマの演奏がいまだにあるのは、やはり芸術経験にはいささかの不純物があるほうが面白いのだろう。贔屓の役者の立ち姿。舞台から投げかけられる言葉や視線。他の観衆ととともに送る喝采。家族や恋人と経験をともにする嬉しさ。そうした雑多な身体感覚を伴う生きた経験は、たとえ作品や演奏の出来が悪くても、その場で十分堪能できるのである。それが本当にリアルな、ナマの経験なのか、あるいは芸術経験という架構的な世界と同様の資格でリアルな世界なのか、というのは大問題だが、そうした感覚を欲しがるというのは事実だろう。
2.5次元の0.5次元分は、人工的な構成物に何がしかのリアルさを加えようと、ナマモノとのコンタクトを求める心がもたらした厚みである。勿論、常にそれが成功するというわけではないだろう。下手をしたら、せっかくの人工物がナマ臭く、陳腐なものになってしまう。しかし、添加されるナマモノは、実のところすでに一種の加工品であって、うまく加工さえすれば、二次元世界と塩梅良く組み合わせることはできるだろう。

ところで、ナマモノと対になるのは、何もアニメとかゲームとか電脳世界の話だけではない。もともとナマモノと対置されてきたのは乾物であろう。そして生肉や生野菜にはない旨味が乾物にはある。身欠鰊、棒鱈、干し数の子、干したけのこ、干椎茸、スルメ、昆布など、文字で列挙するだに、何ともいえない滋味が思い起こされる。そうした加工品は水に戻すことで案外としなやかな姿を取り戻すのだが、かといってナマモノの生臭さとは違う、香り高いしなやかさである。古典を現代に蘇らせるのも同様である。だとすると、ひょっとしたら、ナマの身体性を発動させるという点では、古典の演奏や再演出も2.5次元と言えなくはないかもしれない。
しかし、それでもいわゆる2.5次元は古典の演奏とはちょっと違う。2.5次元は、単なるオリジナル作品のナマ上演ではない。そこでは、なかんづく人体の描写が大事なのである。2次元で描かれた人体があって、それがさらにリアルな生身で演じられる。2次元の姿形にリアルな肉身を重ねる、あるいは現前する肉体を2次元世界の像に引きつけて見ようとする関心こそが、勝っている。これはオリジナルと演出というよりも、生身の身体性をより強調するための仮装や異性装という(これまた古典的な)伝統に連なるものとして考えたほうがよいだろう。
そしてさらには、仮装の多くが身体を別の身体に偽装するという3次元内での行為であるのに対し、そのなかでも2.5次元は、同じ身体表現であっても、異なる次元の媒体が併存するという点で、コラージュに近いと言えるのではないだろうか。コラージュは同一平面に全く違ったテクスチュアの紙片や布や文字を貼り付けることで、その平面を単なる二次元の視覚像ではなく、物質的なナマの表面とイメージとを交々見つめさせ、そのことで平面がつるんとした平滑な像を呈示する媒体ではなく、3次元空間内にあることを意識させる。そして、そのようなコラージュの効果に近いものは絵画でも実現できる。たとえばクリムトの描く、きらめく装飾的背景に埋もれた肌色の肉身である。金属的で奥行きを感じさせない硬質の平面上に、そこだけバラ色に輝く柔らかな頬が出現する。媒体間の相違が、2次元空間を一様な平滑空間とするのではなく、0.5次元分のナマ肉を介入させる。それが彼の作品の妙な生々しさを醸し出す。2.5次元の「0.5」は、まさにそうしたナマのテクスチュアの厚みではなかろうか。

画像キャプション
G. クリムト《接吻》1907-1908年、ヴィーン、ベルヴェデーレ宮。Google Art Project.