アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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#88


― 山本太郎

(2020.04.05公開)

季節は巡り毎年のように春の匂いがしてきた花々はほころび始め、日差しも暖かだ。しかし、今年の春は普段と少しだけ様子が違い、やや窮屈に感じられる。新型コロナウイルスの影響で学校は休校し、様々なイベントが中止となっている。人々の移動も気持ちの上でも制限がかかり、春霞とは違った不思議なモヤモヤが世の中を覆っている。手のひらのデザインの本編とは直接的な繋がりはないものの、この時期に文章を残せる限りは現状を記録しておいた方が良いだろう、と思いこんな書き出しとなった。数年たった後でこの文章を読んだ人はどんな感想を持つだろうか。

こんなモヤモヤした気持ちを晴らしたいときには色んな方法があるだろう。気の合う仲間と騒ぐ人もいれば、美味しい食事を食べる人もいる、ひとり静かに音楽を聴く人もいるかもしれない。私の場合は墨を擦ることで曇った気持ちがゆっくりとなくなっていく時がある。小学校や中学校の書道の時間に使う「硯(すずり)」がプラスチックのただの硯形の入れ物になってしまっている現代では、墨を擦るという経験をしたことがない人もたくさんいることだろう。墨を擦るという作業は日本画の材料を使自分の制作の中でも特に地味な作業だ。
しかし、この単純作業には不思議な癒し効果があり、気がつくと1時間ほど擦っていたということもしばしばである。左脳的な頭を使わないで繰り返される単純な動作。これをただただ続けていくと美しい墨が出来上がる。この単純作業が気持ちを落ち着かせてくれる。ちなみに、自分は書道の授業で教わったときのように墨を前後に動かすのではなく、軽く円を描くようにして擦る。作法としては間違っているのかもしれないが、この擦りかたの方が長時間擦っていても腕が疲れない。昔、自分が小学生だった頃はみんなと同じように、大量の水を硯のくぼみに入れてジャバジャバと墨で水をかき混ぜるようにしていた。あのくぼみを「海」と呼ぶと知ったのは大人になってからで、本来はあのくぼみには綺麗に擦れた墨だけを入れる。墨を擦るときには、くぼんでいない「丘」もしくは「陸」と呼ばれる場所に少量の水をおき、その少量の水が粘り気を帯びるくらいまでゆっくりと擦る。粘り気が出るくらいまで擦ると、粒子が整った濃い艶のある綺麗な墨が出来上がる。そうしてできた墨を海に移し、さらに量が必要な場合はまた丘に水を注ぎ改めて擦っていく。大量の墨がいる場合これを何度か繰り返す。
そして擦り続けると墨特有の香りで部屋が満たされてきて癒しの効果をさらに引き立ててくれる。

大学で最初に日本画を学ぶことになったときに画材の高さに驚いた。3浪して私学の美術大学に入学した自分は学費だけでも両親に申し訳ない気持ちがあり、本来なら入学時にセットで揃えるべき日本画材のセットの購入を親に言い出すことができず、硯と墨、そして筆数本、という最小単位の画材を発注した。このときは購入した硯はそれこそ小学校の書道の際に使用するような、いわゆる学生硯と言われる一般的なサイズのものだった。学生時代はその小さな硯でもある程度なんとかなったのだが、卒業後大きなサイズの作品をたくさん作るようになり、たくさんの墨を使用する必要が出てきて、大きな硯を購入した。高価な硯には豪華な彫りを施したものもあり、さながら工芸品の名品ようでもあるが、私が持っているものはごくごくシンプルな硯機能のみのものである。丸みがあり、結構ふっくらとしている。ただ、そんなシンプルな硯でも大学を卒業したてでアルバイトをしながら制作を行なっていた当時の自分にはかなり高価なもので(本当はそういうお店ではないのに)支払いを分割にしてもらった記憶がある。当時の感覚で言うと少し安いノートパソコンを買うくらいの買い物だった。よく考えたら、硯と墨と筆は世界の歴史上でも古いデバイスで自分で使いこなせればワードやイラストレーターのようなアプリケーション機能になるので、今のパソコンと同じくらいの価値があるのかもしれない、と最近つらつら思う。
日本画に使う道具や材料は基本的に消耗品が多く、ずっと使い続けているものは意外と少ない。筆や刷毛は使用していくと傷んでくるので、買い替える必要があるし、絵具や金箔などの材料ももちろん絵を描けばそのたびになくなっていく。そんな中で硯は若い頃からずっと使い続けている少ない道具の1つだ。

硯は石の産地によって特徴や良し悪しがあるのだが、私が購入したのは中国の端渓という地方から取れたもので、一応硯の中では良いものだとされている。
石の良し悪しと言っても普段硯を使わない人にはわかりにくいと思うのだが、基本的には墨を擦ったときに、おり(墨が濃くなるまでの時間)が良く、また細かな粒子の墨が擦れるものが良いとされている。硯の表面は大雑把にいうと非常に滑らかなヤスリだと思ってもらうと良いかもしれない。つまり表面を拡大してみるとザラザラとした突起が無数にあるということだ。この突起の大きさや面積あたりの突起の数により、素早く墨を擦れる石があったり、擦れた墨の粒子の大きさが違ってきたりする。この突起のことを鋒鋩(ほうぼう)という。墨の粒子が細かければ水などで薄めたりぼかしたりしたときに、綺麗な色が出る。書道などでは色の濃い墨しか基本的に使用しないので、あまり差が出ないが、絵を描く際には水で薄めることも多いので、墨の粒子の細かさは重要になる。
学校で習う習字の時間では硯の墨をしっかり洗うことが少なく、硯の表面に乾いた墨がこびりついていることがあるが、実はこれでは鋒鋩の性能が発揮されず、墨がきちんと擦れない。基本的に硯は使用する度に水で思いっきり洗うのが良いと思う。
また、墨は簡単に言うと煤をニカワで固めたものなので、墨を擦るときはニカワの性質に影響される。ニカワとは動物から取れる接着剤で昔は広く利用された。ウサギ、シカ、チョウザメなど様々な動物から取れるが、現在の日本ではウシから取れるニカワが一般である。ニカワは動物性のタンパク質で、いわゆるコラーゲンゼリーに近い成分だ。自然由来のものなので温度に敏感に左右されやすい。ゼリー状の性質があるので、具体的には18度以下の温度になると固まり始める。つまり冬に墨を擦るときにはおりが良くないことがあるのだ。そんなときには墨をする水をお湯に変えたりする。また、部屋の温度がどうしても低すぎる場合は、墨を擦る少し前に硯全体をぬるま湯につけておき、硯自体を温めておくと墨はおりやすくなる。硯は石の塊なので冬場は特に温度が下がっている。それをお風呂に入れるようにしばらくぬるま湯につけて、擦る前に引き上げる。お湯から引き上げた瞬間は硯全体が濡れていてなんとも美しい。本当のお風呂上がりの赤ちゃんの肌のようにツルッとしていて、これから墨をする時間が楽しく感じられる。少し温まった硯に少量の水を垂らし擦り始めるときはいつも何かが始まる予感がしてワクワクする。

墨を擦った後は当たり前だが必ず絵を描く。結局私は絵を描くのが何よりも大好きなので、絵を描く準備としての墨を擦る行為も好きなのかもしれない。
この硯は20年近く愛用しているが、まだまだへこたれなさそうなのでずっと使い続けるだろう。きっと自分の人生よりもこの硯の方が長生きするはずだ。

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山本太郎(やまもと・たろう)

1974年熊本生まれ。2000年京都造形芸術大学卒業。大学在学中の1999年に、寺社仏閣とファーストフード店が至近距離で混在する京都にインスピレーションを受け、伝統と現代、異質な文化が同居する「ニッポン画」を提唱。日本の古典絵画と現代の風俗が融合した絵画を描き始める。ニッポン画は3つの柱で表される。それは「日本の今の状況を端的に表すこと」、「古典絵画の技法を使うこと」、「諧謔(かいぎゃく)をもって描くということ」。近年は企業等と積極的にコミッションワークを行いキャラクターを使用した作品も多数制作している。その作風は現代の琳派とも評される。京都芸術大学准教授。
2015年京都市芸術賞新人賞、京都府文化賞奨励賞受賞。

主な展覧会

2007
VOCAにおいて大賞となるVOCA賞を受賞 上野の森美術館(東京)

2008
個展「風刺花伝」新宿髙島屋(東京)/京都高島屋(京都)

2011
「ZIPANGU ジパング展 - 31人の気鋭作家が切り拓く、現代日本のアートシーン。 -」日本橋髙島屋(東京)大阪髙島屋(大阪)京都髙島屋(京都)

2012
Kamisaka Sekka: Dawn of modern Japanese design」ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館(オーストラリア/シドニー)

2013
「“The Audacious Eye”Japanese Art from the Clark Collections」ミネアポリス美術館(アメリカ)

2015
「琳派四百年 古今展細見コレクションと京の現代美術作家」細見美術館(京都)
「琳派からの道 神坂雪佳と山本太郎の仕事」美術館「えき」KYOTO(京都)
京都府文化賞奨励賞受賞

2016
IMAYŌ 今様: JAPAN’S NEW TRADITIONISTS」ハワイ大学アートギャラリーホノルル美術館(ハワイ)

2017
「島田美術館開館40周年記念展覧会 おもかげものがたり 山本太郎作品と館蔵品と」島田美術館(熊本)

2018
A-lab Exhibition Vol.15 尼崎城プロジェクト関連企画 『時代とあそぶ たびする つくる』 山本太郎展 あまらぶアートラボA-lab(兵庫)

2019
「太郎冠者と太郎画家 茂山千之丞襲名披露記念|装束披露」imura art gallery(京都)
「日本の美 美術×デザイン」富山県美術館(富山)