(2020.01.05公開)
わたくしは、ジャンパーの定義をこう考えてみている。いわゆる十九世紀いらいのイギリスの紳士好みの服、肩や襟にパッドやシンギレを入れ、袖付けをきゅうくつに作り、胴にもダーツを入れて作ったような服でなくて、肩も袖つけも柔らかくて自由な行動ができる服のことだと単純にきめている。そのまま長押の釘に吊り下げておいても、形がくずれるという心配のない服のことだと。だから飾り立てた洋服タンスも要らないわけになる。
今和次郎(1967年)『ジャンパーを着て四十年』文化服装学院出版局,p.11
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この定義の意味を文字通りに受け取ってしまえば、自分が最近よく着ているこれは、「ジャンパー」と呼んで良いのかもしれない。さすがに長押の釘につり下げたりはしていないけれど。椅子にかけていても、床に放っておいても気にならない。ラグラン袖で動きやすいし、もちろん胴にダーツも入っていない。おまけに雨もはじくし汚れもつきにくい。「ジャンパー」は、アメリカではワンピースドレスを意味するし、イギリスだとセーターを意味してしまう和製英語。そして少し古めかしい、おじさん臭さがある言葉。死語なのかもしれない。もっとこのアイテムを形容するのに適した言葉はあるかもしれないが、あえてそのまま書き進めていこうかと思う。
冒頭の一文は今和次郎が書いた随筆集からの引用である。
学生時代、今和次郎がどんな人物か知らずにこの本と出会い、生活、科学、文学、芸術を行き来する、その教養溢れる文体にとても感銘を受けた。と言っても、当時はどこにでもジャンパーを着ていく変ったおじさんの備忘録として楽しみ、その後いくつかの和次郎の著作を読んでみたものの何ともしっくりこず、結局この本を古本屋で買い直したという記憶がある。
改めて本棚から取り出し、久しぶりに目を通してみる。やはり思う事は、若干狂気じみている(と自分は思う)考現学の採集記録やその研究成果より、それを志すに至る、人となりや研究者としての態度そのものが詰まっているこの随筆のほうが、読み物として面白味は上回っていると思うし、なんだか胸を打つ。
眼の前にある対象物に、千年前の事象を見るように興味を持つ考現学というフィールド。和次郎はその場に立つ為に、一般人のもつ慣習的な生活から離れ、常に客観的な立場で生活をしている自覚を持たなければならないと、自分に言い聞かせるように書いている。そんな態度の体現が、どこに行くにもジャンパーを着ていく姿そのものなのであろう。
ただこの本でも随所に書かれている、その装いから生じる世間との摩擦、世間からの冷ややかな眼差しを、勿論気にはしていて(そんな感じがする文章でそれがとても好き)、それでも自分の研究を遂行するために貫き通す、その信念のような拘りは、採集記録への書き込みと同様の気概を感じずにはいられない。本当に捨て身だと思った。
そんな話をしてから冒頭のジャンパーの定義に戻る。どう考えてもそのまま文字通り読んではいけない。彼にとってジャンパーを着る事は、自分がジャンパーを着るそれとは全く違う意味がある。このパタゴニアをジャンパーと呼ぶのはおこがましい気がしてきてしまうくらいに、自分の生き方に後ろめたさを感じてしまった。もはや戒めとしてこの死語は使うことにしようかと。
最近、なるべく客観的な視点を持って日々生きないといけないなと感じることが多くなってきた。学校を卒業して学業としてやっていたことが仕事となり、世の中で生きていくための方法になってきた気がする。そんな驕りから自分の考えが蛸壺的なものになってはいないか、たまに不安になる。
和次郎の研究者としての態度を、そっくりそのまま今に受け継ぐのは難しいと思うし、そもそも自分は研究者ではない。できることは、自分の置かれている立場をしっかり把握して、適切な距離感で世の中を観察する事。そのあと物を作る事を考えたい。
小梶真吾 (こかじ・しんご)
1991年生まれ。東京出身。
2014年京都造形芸術大学空間演出デザイン学科卒業。
卒業後パリに渡り2015年Académie Internationale de Coupe de Paris メンズモデリストコース修了。
帰国後2年間、Theater Productsに勤務。17年に独立。
同年、デザインスタジオwellの立ち上げに参加。
well-studio.com