(2018.08.05公開)
特定の名称があるのだろうか?
「ハサミ入れ」。私はこう呼んでいる。
花バサミが携帯出来て、使用時にすぐ取り出せる状態を確保しながら、必要のない時には手軽に携帯をやめてハサミをしまえるとても便利なアイテムである。
携帯時はベルト、もしくはズボンに引っ掛け、右大腿部あたりにぶら下げている。右側なのは私が右利きだからだ。
どこにでもハサミと共に旅をしている。
元はホームセンターで1500円位で求めた、剪定バサミ用のハサミケースなる商品である 。これを使いやすいようにカスタマイズして使っている。
同様のものを使い出して20年程になるだろうか? 現在多分3代目。1代目と2代目はハサミと共に紛失してしまった記憶がある。
カスタマイズは利便性と耐久性の向上が主な目的で、元が安物だけにとても手間がかかる。しかしその分オリジナリティ溢れる品物に生まれ変わる。
利便性を考え、腰にすぐに下げられる様にオリジナルの引っ掛け金具を取り付け、気持ちよく手が届く位置になるように調整してある。
ハサミが収まる背板の部分は表面こそ皮だが、厚みを付けてある部分は紙を貼り合わせたものなので、濡らしたりぶつけたりしていると、折れ曲がったりヨレたり端がめくれたりしてくる。
折れ防止には背板に鉄のプレートを添えて、端のめくれ防止には真鍮の針金でかがり縫いして補強している。
他にも色々と工夫を凝らしている(長くなるのでこのへんで)。
私はあまり道具を大切に扱わない方だと思う。かなり乱暴に扱ってしまっているようだ。だけど道具がボロボロになって行くのは好きじゃない。そして、そんなに高価なものは身の丈に合わないので手に入れたくない。もちろん買うことも出来ないが。
自らの手と判断で工夫を凝らして修復や強化をしたいらしい。
強固でいて柔軟性に富む物が好きなようだ。
ここで少し花をいけることについて書いてみたい。
花をいける。
よく使う言葉だがいったいどんな行為を指す言葉なのか?
一般的には切り花を水の入った器に挿すことを示すのだろうが 、それだけでは我々のような「良い花をいける」ことを求められている身としては期待に応えることは出来ない。
花をいけるとは、人による人のための行為である。
一次的にはそれ以外の何物でもない。
生きている花を根から切り離し、生物の最大の存在意義である生殖の唯一のタイミングを奪いとっているわけだから、植物のための行為では無いことは明らかである。
人には変なクセがある。あらゆる物を擬人化してしまうというクセである。
花も同じく人のように見てしまっている。
良いも悪いもないひとつの事実である。
花の部分を顔のように。葉は手足のように。茎は首や胴体のように見てしまっているのである。
自ずと人を見るかのような感情が生まれる。そうなると花はただの花ではなくなる。
人の身代わりのような役割を果たす。
人の心に深くコミットする花いけとは。
いけ手本人はもちろん、見る人に深い共感や感情移入を人生やドラマを見るかのように感じさせることなのだと思う。
いかに花に説得力のある演技をさせることが出来るのか。その前にひとつの花の個性を見抜き、そのキャラクターの潜在能力を引き出すことが出来るのか、ということだと思う。花頭だけでなく茎や葉も含めた姿で、である。「お花の為にもキレイにいけなければ」という人がいる。何となく共有している言葉だが、これも花を擬人化することから来るものであろう。無駄にしてはいけないという少しの罪悪感を伴いながら湧き上がった感情なのだ。
所詮、人は人の感情でしかものを判断出来ない存在なのである。花をいけることは、そんなちっぽけな存在である人の在り様を剥き出している行為なのだといえる。
そんな虚しさを抱えている行為が花をいけるひとつの側面なのだ。
花をいけるとは、人が人のために行なっている行為である。一次的にはそれ以外の何物でもないと述べた。では二次的、三次的にはどうなのか?
花は単純にその存在だけで美しい。色や形など様々な感動を我々人間に与えてくれる。それを自然の中から搾取して来るわけで、当然その奇跡的な造形物に敬意の念が生まれない訳はない。そして我々人間に自然がもたらす様々な事柄に目を向け、その偉大さにひれ伏すのである。ここでようやく自然環境の中での我々の近親者である植物との共生を意識することになる。食としての役割、酸素の供給、地表の水分保持などに思いを馳せながら。
「天地人(テンチジン)」という言葉がある。天を知り、地を知り、人を知ることを勧めている花道哲学を表すのによく使われる言葉だ。
人(ジン)は正しく人(ヒト)である。
天と地は自然や森羅万象や宇宙観などと同義語であろう。
私は、人はそれぞれ生きるという欲望の果てに多くの景色を見てきたのだと思う。
実にわがままで貪欲な感情によってだ。このことはとても純粋で清らかなるものだ。
そして今この瞬間に起きている因果を全て抱え込んだまま、自らの行動によってそれらの全てが集約された時、普遍を帯びた塊の様な成果が目の前に立ち現われてくるのだ。
花をいけることはこういうことなのだと思う。
そして花をいけることに限ったことではないとも物語っている。あらゆる人間の行動の行き着く先でもあるのだろう。
私は花道家である。花をいけることで求道を止む無くされた立場である。
そしてキレイな花をいけることを求められる花いけのプロである。
そしてアーティストとして芸術の領域に手が届く仕事を追い求め無ければならない。こう並べ立てると私の立場はとても窮屈なことをしているように感じられるかもしれない。
しかし、花をいけるということは、もともとは歌を歌うことや踊り出してしまうことと同じ遊びのひとつである。
遊びは心に栄養を与えるもの。
食物が体に栄養を与えるように。
ここでまたハサミ入れに話を戻したい。
ハサミはまさしく道具である。
道具とは肉体の能力を拡張してくれるものだ。言い換えると肉体の延長線上にあるものだ。人によっては肉体そのものだと言う人もいるだろう。そこには魂が宿るという概念まで発展するだろう。
そこでだ。前段で書いた花を擬人化すること。これにはもうひとつ大切な観点がある。人とは実に自己に対する愛情に溢れた生き物であるということだ。人はそれぞれ共通の最大の関心事を抱えている。それは自分自身のことだ。いつも自分事ばかり考えている。体調の事や容姿、将来について過去について様々である。今眠い腹減った!! 楽しい、苦しい、全部そうだ。
この自己意識の影響で自身に近い存在に共感するようになる。それがエスカレートしていくと全く関係無いものにも共感しだす。人のように扱い名前を付けたり人でない物を人のように見てしまう。ゆるキャラなどはその表れだろう。偶像崇拝あたりもそうだろう。それが擬人化のクセの正体なのだろう。
「自分の道具」。それは自分自身なのだと思う。冒頭で書いたこと、ハサミ入れ自体を自身に重ね合わせてみる。
過酷な状況に置かれたら力を発揮する。
安物だが高価な物より輝きをみせる。
創意工夫が肝である、など。
ちょっといいように書きすぎたが 私の願望だと思って許して欲しい。
今後は、道具にあまり愛情をかけ過ぎないことも大切なのかもしれない 。過酷な状況は私に多くの学びをもたらしてくれる。
ハサミ入れの話なのか自分のことなのか混同してきたのでそろそろ締めたいと思う。
私はこれらも遊びとしての花いけを存分に楽しみ、心に栄養を人一倍補給しながら、自分を支えてくれ、そして自分自身を投影する道具達や花達と共に花いけを続けたいと思う。
最後に。道具は甘やかさないようにハードに扱いながら、とてもとても繊細な仕事を鮮やかにこなしていただけたらと切に願うのである。
上野雄次(うえの・ゆうじ)
花道家/アーティスト
1967 京都府生まれ、鹿児島県出身。
東京都在住。
1988 勅使河原宏の前衛的な「いけばな」作品に出会い華道を学び始める。
国内展覧会での作品発表の他、バリ島、火災跡地など野外での創作活動、イベントの美術なども手掛ける。2005~「はないけ」のライブ・パフォーマンスをギャラリーマキ(東京)で開始。
地脈を読み取りモノと花材を選び抜いていけることで独自な「はないけ」の世界を築き続けている。
創造と破壊を繰り返すその予測不可能な展開は、各分野から熱烈な支持を得ている。
詩人、写真家、ミュージシャン、工芸家等とのコラボレーションも多数行っている。 青葉市子、扇田克也、狩野智、アート・リンゼイ、ジェフ・ミルズ 、中里和人、山下洋輔 、矢野顕子、他多数。