(2015.02.05公開)
「もとよりさるべき仲、えさらぬ睦びよりも、横さまの人のなげのあはれをもかけ、一言の心寄せあるは、おぼろけのことにもあらず。(この人生では、肉親の愛情よりも、赤の他人の心ある一言の方がありがたく、そのご恩を忘れてはならない)」『源氏物語』若菜上第十二章第六段
大きな庭石を動かす際に用いる道具のひとつに、「松敷」という板がある。幅約30センチ・厚み約5センチの長い板で、その上を移動させることで段差のある場所でも既存の建物や庭を傷つけずに運ぶことが出来る。ただし、重たい石が一気に転がってしまうと危険なので粘りのある松材で作る。もちろん市販はされていない。
私が使っている松敷は、京都数寄屋建築「工匠すゞき」を率いる鈴木和行棟梁に作っていただいた。今から7年ほど前、独立して間もない頃だ。鈴木棟梁は昭和の名工と呼ばれた中村外二氏のもとで腕を磨き、「工匠すゞき」棟梁として京都はもとより世界各地で素晴らしい仕事を残してこられた。私も縁あって独立前から何度か現場でご一緒させていただいたのであるが、その度ごとに数寄屋建築の技術的な見方や職人としての心構え、独立後は庭師として施主とどう向き合うべきか、など、いろいろな事を教わった。東北出身の朴訥なお人柄で、あまり多くを語る方ではないのだが、いっぷくの時の何気ない一言や、何よりも現場で見せる仕事に対する厳しい姿勢に幾度となく励まされ、救われてきた。
棟梁の訃報に接したのは、松敷を納めていただいて間もない時だった。思い返せば少し痩せられていた気もするのだが、病と闘っていたとは想像だにできず、信じられない思いだった。通夜の帰り路、生前に頂いた言葉のひとつひとつを思い返しながら、私の頭にひとつの目標が浮かんだ。それは亡き棟梁への誓いのようなものだった。
「頂いた松敷を棟梁のお弟子さんの現場で使う」
しかしそれは、簡単なことではなかった。「工匠すゞき」を引き継いだ「工匠織田」もまた一流の数寄屋大工であり、出入り先も一流。しかも松敷を使うともなれば広い庭をもつ建築現場である。独立して間もない私にそのような御縁はなく、棟梁から頂いた言葉の全てを忠実に守り抜いたとしても、松敷を使うような仕事にたどり着けるという確信は、正直に言って、全く無かった。それから5年程の間、大きく重たい4枚の松敷はいつやって来るとも知れぬ出番を待ちながら、私の資材倉庫の片隅で眠ることになる。
その願いが叶ったのは2013年、宿「十宜屋」(京都新門前)様の造園工事だった。後日お聞きした話では、亡き棟梁と親交のあった方が私を推薦していただき、施主様もまた偶然ではあるが、私の造った庭をそれとは知らずに度々訪れていたそうだ。いろいろな御縁が円環を描くように繋がり、その時が巡って来た。
棟梁の形見である松敷のようやくの出番。庭師としては若輩者の私に任せていただいた施主様、ご紹介いただいた方、それまで様々な経験を積ませていただいたお客様の恩に報いるためにも、いい加減な仕事は許されない。材料の出し惜しみなどもってのほかだ。古伽藍、朝鮮半島招来の手水鉢、西園寺家ゆかりの白川石など、選りすぐりの庭石を松敷に乗せた。約1年半におよぶ工事は石屋さん、植木屋さんなど多くの職人たちに助けていただいて、ようやく完成。
工事を通じて様々な方との御縁を深めさせていただき、また新たな御縁も頂戴した。
たかが道具、されど道具。松敷も所詮はただの板、代替品がない訳ではない。しかし、扱う庭石の来歴や納める家の歴史にはそれぞれが大切にして来た御縁というものがある。その中に加えていただくのだから、道具といえども多少の想いは乗せた方が気持ちに張りが出るし、そのような道具を大切に扱うことが仕事を通じで御縁をいただいた方々への最低限の礼儀だと思う。
今また資材倉庫に横たわる4枚の松敷も、やがてはその役割を終え、ゆっくりと円環を閉じる時が来るのだろう。その時までは、松敷がつなぐ御縁に感謝しつつ、大切に使おうと思う。
菅藤恵輔(かんとう・けいすけ)
1975年長崎生まれ。一橋大学卒業後、7年間の修業を経て、「菅藤造園」設立。京都の伝統技法を基礎として、国内外の著名な芸術家との協働を通じて得た造景感覚により造園する。主な仕事に「Garden」(2014、美術家・名和晃平との協働、第1回京都国際映画祭出展作品)、「Glass Tea House Mondrian」(2014、杉本博司+新素材研究所、ヴェネチア)、鍵善良房 祇園南店+ZEN CAFE(2012、京都)以上造園、杉本博司・茶室「今冥途」(2011、ニューヨーク)資材提供協力、関西日仏交流会館・ヴィラ九条山(2008、京都)リフォーム・維持管理など多数。