(2024.07.05公開)
サックスを演奏しはじめて約30年。
ある演奏家は歯を磨くように楽器と共にある、なんて話をしているほどに、器楽奏者にとっての楽器の存在それは生活と共にある、と断言していた。
真鍮でできているサックスは、壊れやすさは衝撃具合にもよるが比較的丈夫で、この楽器とあらゆる場所を今まで共にした。
トルコ・ボスポラス海峡を渡る小舟の上での演奏、山形・月山山頂、喜界島の洞窟、サハラ以南アフリカの炎天下……etc。
今使っているサックスは、フランスへ渡る前に新大久保の中古楽器屋さんでみつけたもの。
その当時はまだヴィンテージサックスはさほど注目されていなく、しかも1920年代の楽器となれば、技術的にまだ未完成な部分もある。
サックスの歴史を紐解けば、1840年代にベルギー人であるアドルフ・サックスの発明によるのだが、本国ではあまり興味を持ってもらえず、パリでも当初、ベルリオーズに「ひん曲がったトランペット」と揶揄されたそうだ。
サックス本体の重さといえば約2.5kg。
この重さと毎日ある。
サックスを演奏するには親指以外の指全てを演奏のために使う。
ではどうやって2.5kgの物体を操るのか。
そう、サックスという楽器本体と同じくらい重要なもの、それがストラップだ。
両手で持ち構え、指はキーを押さえたり離したりするので実際にサックスを支えるのは身体、首の部分となる。
人間工学的に考えられた様々なスタイルのストラップが存在するものの、今以てその改良はされ続けている。
歴代様々なストラップを試した。軽量タイプ、首に当る部分のクッションが厚いもの、背中から襷のようにかけるもの。
しまいにはパリ市庁舎の目の前にあるデパートBHVの地階日曜大工コーナーで買った革のリードを代用したこともある。そのどれも腑に落ちないままいつの間にかサックスを吹き始めて30年目にして思いついたのが、自分のサイズに仕立ててもらうというアイデアだった。
市販のものは通常長さを変えられる構造になっており、サイズは画一されている。
演奏者によっては、マウスピースやリガチャー(マウスピースにリードを留めるもの)によりこだわりを持ち、あるいは音の鳴りのためにはラッカー塗装を変える人もいる。
わたしの場合はそういったこだわりは一切もっておらず、もちろん「音」そのものへの探究が尽きることはないが、楽器自体のこだわりは微々たるものだった。
ではなぜストラップに執着するのか。
それは、長年腰痛と、頚椎から左腕にかけての痛みに悩まされていたからだ。
サックスを演奏することが原因なのか。あるいは日常生活からくる問題なのか。精神的なものもあるだろう。
ある日あまりの腰の痛さにコルセットをしてサックスのレッスンに行った際。開口一番先生に「演奏する以前の問題として身体の問題点を改善することが必須です」と言われた。
パリでの生活はその毎日が自転車と共にあり、またヨガも定期的に行っていた。またアレクサンダー・テクニークと呼ばれる心身技法も試した。
ある日、友人のギター奏者の生徒が、「将来オステオパット師になるため研修をしています。僕の先生を紹介しましょうか」と申し出てくれた。
オステオパットとは日本でいう整体に近い施術のことを指す。
早速予約を取り、御歳80歳近かっただろうか、年配の男性技師に身体を委ねることとなるのだが、開口一番
「下着一枚になってサックスを吹いてください」とのこと。
日々の痛みの治癒のためなら、とでもいう藁にもすがる思いで演奏を始めると、先生は360度わたしの周りをじっくりと観察しはじめた。
触診、そして治療へ。幾分体が軽くなった後、施術後の注意点を話し始めた。
「今までのご自身が写っている写真を見てください。ほんの僅かですが、いずれも右方向に首が傾いているはずですよ」と。
そして、サックスを吹く際右肩が下がっているのだという。
私自身では気がつくことのなかった身体の癖。長年の姿勢、癖のままサックスを吹き続けてきた結果だったのだ。
帰り際先生に尋ねてみた。
「どんな患者さんも服を脱いで施術を受けるのですか?」
「もちろん。年齢性別関係ありません。そういえば、あなたは日本人ですよね。今まで診た中でとても印象的な方がいましたよ。
その方は施術の後、サル・ガヴォーでのピアノソロリサイタルを1時間半弾ききったのですよ。
フジコという名前です。わたしは招待されて会場に聴きにいきましたが、感動しましたよ」
今は亡きフジコ・ヘミングさんも、治癒を求めここにきていたのか。
後からわかったことだが、この先生は音楽家を施術するエキスパートだったのだ。
その後、諸々事情を知った方が、オーダーメイドのストラップをプレゼントしてくれた。
長さの調整は必要無い。なぜならわたしの身体に合わせて作られたものだから。以来すこぶる身体の調子も良く、音楽的体験も自由度が増した。
身体の中心のバランスを意識せぬまま、基礎体力に自信を持ったままサックスを吹き続けてきた。
わたしが師と仰ぐサックス奏者は足の裏から大地のエネルギーを吸い込み、脳天突っ切って宇宙へと届くような、そんな音を出す。
宇宙へ届くような音。
重力からの解放を求めるのではなく、その力と共にあるという意識。
音楽を限りなく自由にしてくれる、命の綱、ストラップ。
仲野麻紀(なかの・まき)
https://makinakano.mystrikingly.com/
サックス奏者。2002年渡仏。自然発生的な即興、エリック・サティの楽曲を取り入れた演奏からなるユニット Ky [キィ] での活動の傍ら、様々な土地、様々な人々あるいは一人で演奏行脚を行いながら、音楽レーベル openmusic、アソシエーションArt et cultures symbiose-芸術と文化、共生-をフランスで主宰。『旅する音楽』(せりか書房)にて第4回鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。
最新作は、古美術・現代美術のコレクションギャラリーでの撮影、演奏をテーマにした俳句 CD-Book 『古今』(Edition Ecoute出版)。
2017年から開始したネットラジオopenradioは月齢周期に沿って配信中。
https://www.mixcloud.com/makinakano/
音源試聴
https://openmusic-ky.bandcamp.com/