アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

このページをシェア Twitter facebook
#128

スマートフォン
― 倉田 翠

(2023.08.05公開)

「翠ちゃんは、物に感動したりしますか?」と、ある人から聞かれたことがある。私は物に執着がない。いや、好きな物くらいあるとは思う。ただ、愛着とかこだわりとかが人より希薄であるように感じる。
その質問をしてきた人物も私もダンサーである。自分の身体をある程度物として扱っている、扱おうとしている節はある。結局その問いにはっきりとした返事はできないまま、今に至る。

Photo:前谷 開

Photo:前谷 開

この原稿依頼を頂いた時に、「あーはいはい、物来ましたか」と思った。
私と物について、今一度考える。
今、この原稿を何で書いているかと言うと、私はスマートフォンのメモという機能を使って書いている。しかも私は文字をフリック入力することができないので、例えば「お」を打つために「あ」のところを五回もチョンチョンチョンと押している。
私は意識的にパソコンを持たないようにしている。それ故、どんなに長い原稿であっても、この小さな画面で、チョンチョンとボタンを押し(ボタンですらないな、平面に書かれた文字を押し)書き上げている。
もうこれはリズムになっていて、何の苦もないのだが、ある雑誌に少し長めの文章を寄稿した際、私がメモで書いた文章が実際に掲載される二段組みの形になって返ってきた時、ひどくびっくりした。私が書いた文章とは思えなかった。直しが入っているわけではない。要するに、この小さな画面のメモリズムとは全く違うリズムになっていたのだ。

Photo:前谷 開

Photo:前谷 開

そのように、私は結構スマートフォンが身体感覚となり自分の中に組み込まれていると感じている。
私は舞台作品を作る演出家という仕事をしているが、例えば稽古中、私は携帯から音を出す。「今!」というタイミングで「これ!」という音を出したい場合、アクターの様子を見ながら、手元でYouTubeで検索して、スピーカーと繋げてある私のスマートフォンから、私が出したいタイミングで音を出す。このやり方が一番直感に追いついてくる速度が速い。
また、仕事関係のメール、出演者たちとのグループライン、お客様がメッセージをくださるSNSなど、この、小さなペラペラの四角の中で、国内外の様々な人たちと連絡を取り合っている。
時には真面目な言い合いみたいなことをスマートフォン上でする場合もある。え! でもちょっと考えてや、私フリック入力できへんねんで! すごい勢いでチョンチョンチョンと文字を打ちながら言い返しているわけである。どうかしてる。というかもうこの速度感が「言い合い時」のリズムになっている。意識が頭というか親指にある。
記憶も危ない。Facebookが「何年前の今日ですよ」などと言って、数年前の写真を出してくる。あ、へー、もうそんなに昔かー、とか思う。「思い出す」ことすらコントロールされている。

Photo:前谷 開

Photo:前谷 開

そのように、おそらく今私はスマートフォンなしには仕事ができないくらい身体の一部になっているわけだが、数年前、突然使っていたスマートフォンがブラックアウトし、蘇らなくなってしまったことがある。
私は機械音痴なので、バックアップとかiCloudとか全然意味がわかっておらず、壊れた瞬間に全てが消えた。
一日二日はかなりオロオロしたが、三日目くらいに、スマートフォンのない生活がちょっと気持ち良くなってきてしまった。私はそこから二週間ほど、なんだかんだと理由を付け、新しいスマートフォンを買いに行かなかった。時間も目覚ましも世の中のニュースもスマートフォンから得ていたので、何もわからなくなった。あー、私ってこんなに何も知らないんだと思った。不安が身体の軽さに変容していく。ご飯を抜いて身体を空にする気持ちよさに似ていた。

二週間ほどが経ち、さすがに仕事に支障が出てきた。新しいスマートフォンを買う。消えてしまったデータは戻って来ず、そこから再スタートしている。
そして今その新しいスマートフォンはデータでパンパンになっている。
そろそろ一回壊れてほしい。

Photo:前谷 開

Photo:前谷 開

この文章を早々に書き上げ、少し時間が経った。改めてスマートフォンのメモ機能に置いてあるこの文章を読む。
少しだけ過去の私を今現在の私が俯瞰している。
私は昨日まである作品のオーディションの審査をしていた。そこでは「かつての身体を思い出してもらう」ということをした。
お話をしていて、突然に、自分でもなぜ泣いているかわからないけど涙が溢れる。動き出したら、すっかり昔に置いてきていた身体が今の身体に蘇ってくる。
整理整頓した「思い出」にすらなってない記憶がある。
何かの拍子にその記憶に辿り着く。美化もされていないし解決もしていない、そしてとてもささやかで曖昧に身体に残っているデータ。
私はそのような人間が持つことのできる明確ではない記憶をとても愛しいと思う。できるものならそこまで一緒に降りていって抱きしめたい。

私はまだスマートフォンにはなれないなと思う。そんなにはっきりしないでほしい。
と、またすごい勢いでチョンチョンチョンとスマートフォンで文字を打っている。
なぜか泣きそうである。


©Bea Borgers

©Bea Borgers

倉田 翠(くらた・みどり)

1987年三重県生まれ。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)映像・舞台芸術学科卒業。3歳よりクラシックバレエ、モダンバレエを始める。京都を拠点に、演出家・振付家・ダンサーとして活動。作品ごとに自身や他者と向かい合い、そこに生じる事象を舞台構造を使ってフィクションとして立ち上がらせることで「ダンス」の可能性を探究している。2016年より、倉田翠とテクニカルスタッフのみの団体、akakilike(アカキライク)の主宰を務め、アクターとスタッフが対等な立ち位置で作品に関わる事を目指し活動している。セゾン文化財団セゾン・フェローⅠ。2024年度から、まつもと市民芸術館 芸術監督(舞踊部門)に就任。
https://akakilike.jimdofree.com/