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アネモメトリ -風の手帖-

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#3

原稿用紙と筆触
― 上村博

(2013.02.05公開)

先日、知り合いの編集者が嘆いて言うには、最近の若い者に「枚数」で分量を言ってもなかなかうまく伝わらん、と。その若いスタッフは、ワープロソフトの文字数カウント機能が普通になってから仕事に入ったのだろう。私自身は、テキストデータで原稿をやりとりするようになってからも、しばらくのあいだ、枡目の入った原稿用紙を依然として使っていた。できあがった原稿用紙の束を郵便で送ることはない。それでも使っていたのにはふたつの理由がある。

ひとつは、下書きや推敲の際に、どうしても全体や各部分のヴォリューム感をつかむのに便利だった、ということがある。一般的な400字詰という体裁は江戸時代の木版印刷以来の由緒がある。二つ折りにした1ページはたしかに一見して読みやすい文字量(200字)だし、書くときの呼吸としても、それぐらいの区切りはちょうど良い。しかし何より原稿用紙の枚数が共通の尺度だった時代には、枚数を勘定しながら結構を作るのは当然だった。3枚、4枚といった短い文章でも、40枚、50枚の論文でも、「枚」という単位があることで、自分が執筆中の文章のどのあたりにあるものかの見当が容易についた。勿論、パソコンのアプリケーションにも、文字数を常に表示させておくことができるものは普通にある。しかし文字数ではなく、その400分の1の枚数で勘定する方が直観的な把握には優れている。

もうひとつの理由は、触覚的なものである。ペンと原稿用紙との適度な摩擦が、思考を促してくれるのである。人によって好みはさまざまだろうが、ぬらぬらと滑らかすぎてもいけない。かしかしと引っかかってもいけない。紙の表面をさらさらと擦りながら、言葉を引き出す。文字の速度と思考のそれとが一致することで、集中した作業ができる。タイプライターのキイ配列は、機構上の理由からわざと打ちにくくして打鍵のスピードを抑制しているという、まことしやかな話を聞いたことがある。真偽はわからないが、早く字を書けばそれだけ早く文章が書けるかというと、ちょっと違う。文字を記すということと文章を書くということとは別である。昔、ワープロがまだ珍しかった頃、すでに、栗本薫というベストセラー作家は大量のファンタジー小説をキーボードを叩いて生み出していたそうだ。当時ワープロで創作することができるなんて、きっと天才だったのだろう。

しかし私にとっては、紙を用いるということはいまだに重要である。それなのにほとんど原稿用紙を使わなくなった理由は、パソコンに習熟したとか、文字カウントで分量の見当をつけるようになったとかではない。創造的な文章をあまり書くことがなくなったのだ。必要に迫られて作る文書なら、エディタやワープロは最適である。書き換え、コピー、ひな形など、便利な機能が揃っている。浄書の必要もない。しかし、それは結局、浄書すらしていない、ということなのだ。下書きの文章を書き流して仕事をすませている(あるいはその気になっている)だけである。

彫刻家が鑿で石材を刻むように、文章を作るには自分の意のままにならぬ言葉という、ほとんど物質的といっても良い素材を扱わないといけない。物質は思考に抵抗する。しかしその抵抗は同時に思考を支えるものであり、思考に確かな存在を与えてくれる。そして言葉が物質として受肉したものこそ、筆記という運動である。

紙の平滑さとペン先との組み合わせ、インクの色と原稿用紙の地の色とのコントラスト、それらが特段意識に上らなければ、何でも良い。プラスチックの万年筆で使用済みコピーの裏紙に罫線を引いて書いても良い。それが気になっているときは思考停止の状態である。金をふんだんに使った柔らかいペンで麗々しく古風な装飾が施された原稿用紙を使うというのは、生産的な行為というより、コスプレに似た消費行動であろう。コスプレにはコスプレなりの存在意義がある。しかし筆記と思考のためには視覚よりも触覚の方が大切である。

そんなに大事な原稿用紙を手放して、ひたすらキイボードで無味な文章を製造するようになっても、唯一続けていることがある。それは1行20字という設定である。ワープロにときどき付いている原稿用紙のテンプレートはうまく使えたことがない。しかし20字で行が変わるのは重要である。今も、20字の幅のエディターで書いている。いまだに文字数を枚数に換算しているという理由もある。しかしそれだけでない。その昔、黄檗の僧侶たちが木版を整えた文字数で言葉を綴ると、たしかに一枚一枚の原稿用紙を書き上げてゆく触覚的抵抗が感じられ、ただ指先の放恣に流されがちな思考を押しとどめてくれるからである。

 

上村博(うえむらひろし)
1963年熊本県生まれ。京都造形芸術大学教授。
美学、芸術学を専門分野としている。著書に『身体と芸術』昭和堂、1998年、
『芸術環境を育てるために』(共編著)角川学芸出版、2010年、
訳書にグザヴィエ・バラル・イ・アルテ『美術史入門』(共訳)白水社、1999年など。