アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

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#75

日本古来の価値観を継承し、現代社会のエロスを写し取る
― 坪口晄弋

(2019.02.05公開)

エロッサンスを提唱し、性をテーマにした作品をつくる坪口晄弋(こうぼ)さん。彼が撮った写真には、たしかに女性の裸や男女の営みのようすが写し出されているが、エロティックなだけではない。水墨画のような淡い色合いの花が一輪、生けられている写真だと思ってよく見ると、それは裸の尻に挿さっているのである。服が脱ぎちらかされた部屋の中央に写っているもやっとした影は、長時間露光のピンホールカメラで捉えた性行為の軌跡である。性的な表現の中に、あっけにとられるようなおかしさがある。そして、さまざまな感情がかき立てられるのである。このような作品を生み出すのに至った経緯や、そこに込めた思いをうかがった。

———性的なモチーフを使って作品をつくる際に、気を付けていることを教えてください。

ひとの裸が写っているといっても、一概には言えなくて、それはNUDEでもあるし、NAKEDの場合もあるし、また、感じ方もポルノとエロスとは違うと思うんですよ。僕は常に作品をポルノにはしたくないと思っています。被写体をただ性的な対象として見て、目に写った姿をそのままを写真に撮るというのはポルノなんですね。今の時代、写真はデジカメやスマホのボタンを押せば、何も考えなくても簡単に撮ることができます。そうやって裸を撮った写真は、ポルノになるんです。それに産業としてポルノが発達しているので、裸は単純に性的な対象だと受け取られてしまいがちです。僕も仕事や制作前のデッサン的なウォーミングアップでそうしたものを撮ることはありますが、あくまで作品、性表現の場合、理知的にコンセプトを立てて裸や性的なものを扱うことで、その作品はポルノとは一線を画したエロスになると思っています。
だから僕の作品は、被写体をただ性的な対象として見るのではなく、まずコンセプトやテーマがあるんですね。先に漠然としたイメージが浮かんでくることもありますが、その場合でも必ず、映像的なイメージを言語化しています。ことばや文章にしないと、被写体にどんなものを撮りたいのか伝えることができないんです。僕は目についたものを一方的に写真に収めているのではなく、撮られる相手とコミュニケーションをとりながら一緒に作品をつくり上げているという意識があります。

〈我が妄想〉シリーズより《写真家とモデル》

〈我が妄想〉シリーズより《写真家とモデル》

〈我が妄想〉シリーズより《ヴィーナスの乱用》

〈我が妄想〉シリーズより《ヴィーナスの乱用》

———坪口さんと女性が一緒に写っている作品もありますね。これはどのような意図で制作したのでしょうか?

世の中には、男性目線で撮られた女性の写真が無数にあります。そういった写真には、男性側の欲求が一方的に投影されています。その反対に、ふだんは撮られている側のモデルの女性が抱く妄想を、かたちにしてみたらどうなるだろうと疑問に思ったんですね。そしてモデルの女の子に「いつもカメラを向けている僕に対して、やってみたいことはある?」と問いかけて、スタートしたのが〈我が妄想〉というシリーズです。
写真家とモデル》のほうは、男性が女性を撮るときのイメージですね。そしてこちらの《ヴィーナスの乱用》が、モデルの女の子が抱くイメージです。他にも僕を縛り上げて、股間に火を点けようとしているものや、谷崎潤一郎の『痴人の愛』に出てくるシーンのオマージュで、四つん這いの僕に女の子がまたがっているものなどもあります。
どれもモデルの子からやりたいことを聞いて、小道具も用意してもらい、僕もアイデアを出しながら一緒につくっています。さっきもお話ししたように、目の前のものに反射的に反応してシャッターを切るのではなく、写っているものすべてに意図があるんですよ。

———“性”をテーマにするようになったのはなぜですか?

阪神淡路大震災のあとに経験したことがきっかけです。あの震災が起きた当時、僕は高校2年生で、特に被害が大きかった神戸市の東灘区に、母と祖父母とともに住んでいました。震度7の揺れで辺りは爆撃されたようなひどいありさまで、自宅も全壊。家族は無事でしたが、仲の良かった友人が何人も亡くなってしまいました。
そんな中、僕は家族と避難先の小学校で半年以上、暮らすことになりました。今でこそ、災害時は行政やボランティアによって迅速な支援が行われますが、当時はなかなか物資も回ってこないような状態で、自衛隊が到着したのは地震発生から3日か4日ほどあとでした。避難しているひとたちができる限り協力して生活していたんです。
避難先の小学校では男性が5人ほどで班をつくり、1時間おきくらいの間隔で見回りをしていました。火事が起きていないかとか、避難者でもないのに炊き出しや物資をもらいにきているひとがいないかとか、いろいろと見回る必要がありました。
その見回りのときに何度も、トイレや用具倉庫から妙な声が聞こえてきたんです。まだ女性を知らない17歳の僕でも、それが性行為をしているときの喘ぎ声だとわかりました。あとでトイレを見ると、使用済みのコンドームまで落ちていたんです。この大変なときに、大人は何をやってるんだ! ってすごくショックを受けました。

———たしかに、それはとてもショックだと思います。

それだけじゃないんです。母と離婚していた父も心配して、避難所にようすを見に来てくれたんですが、その夜にまた、近くで喘ぎ声がしたんですよ。今度は見知らぬ大人ではなく、よりによって父と母が避難所でそういう行為をしていたんですね。母は日ごろ、別れた父の文句を言っていたのに、こんなときに限って何をやってるんだ! と周りの大人たちの動物的行動に嫌悪して、しばらく人間不信になってしまいました。
でも一方で、この大変な状況でも大人たちを駆り立てるってなんだろうと興味を持つようになったんですね。それまで僕は、小学生のころから絵を描いていたんですが、避難先でショックを受けてから性的なモチーフを描くようになりました。

———子どものころから創作することが好きだったんですね。

そうですね。子どものころは、ちょうど家庭用のビデオデッキが普及しはじめたころで、うちにもあったんですね。レンタルビデオでみた映画のシーンを絵に描いたり、レゴやタミヤの模型で再現したりしていました。黒澤明やデヴィッド・リンチの映画が特に好きでしたね。どちらの監督もはじめは画家志望ということを知って、絵を描いている僕もいつかこんなすごい映画を撮れるようになったらいいなと思っていました。

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女性を撮ることの“純粋讃歌”として制作した〈称像〉シリーズ

女性を撮ることの “純粋讃歌”として制作した〈称像〉シリーズ

———その後、京都造形芸術大学の芸術学科に進学されたそうですが、どんな経緯があったのでしょうか?

中学と高校のころは美術部に入って絵を描いていました。公募展で表彰されたこともあって、はじめは大学で絵画を学ぼうと、入試対策で画塾にも通っていました。それが震災で家がなくなり、画塾に通うお金を親に払ってもらうのが悪いような気がしましたし、自分の将来を真剣に考えるようにもなり、絵画の道には進まないことにしました。絵では食べていくのが難しいという話を、美術作家の方から聞く機会もあって、もっと現実的な方向に進むべきだと思ったんです。
かといって、好きなことを我慢して生きていても、突然、大きな災害にあって死んでしまうかもしれません。実際に小学校から仲が良かった親友の命も、いきなり奪われてしまいました。親友たちのぶんも、好きなことをして悔いなく生きたいという気持ちも強くありました。
やっぱり僕は、ものをつくって表現することが好きなんですね。だから芸術に関わりたくて、京都造形芸術大学の芸術学科に進むことにしました。それに絵画の道は厳しいといっても、食べていけているひともいるわけです。その一握りの成功しているひとは何が違うのかという芸術のありかたやシステムに興味を持って、理論系の芸術学科に入学したんです。今でいう芸術表現・アートプロデュース学科ですね。

———理論系の学部にいた坪口さんが、写真を撮るようになったのはなぜですか?

幼馴染が別の大学で写真を学んでいたんです。それで僕もその幼馴染に教えてもらって撮ってみたら、想像以上に面白かったんですよ。その後、近所にある昔ながらの写真館の爺さんのところに行き、写真を教えてくださいと言って通い出し、図々しくも撮影やら暗室のイロハをいろいろと教わりました。
そのとき強く感じたのは、写真というのは、絵画などの表現手段とは違って、写したいものがその場にないと成立しえないということです。絵画なら対象物を見ながら描くこともありますが、あとから思い出して描くこともできますし、完全な想像を絵にすることも可能です。
でも写真は、写したい状況や対象物と同じ空間にないと撮れないんです。それがとても新鮮だったんですね。ひとを撮るとき、被写体とコミュニケーションをとりながら作品をつくっていくというプロセスも面白くて、次第にのめり込んでいきました。映画もカメラの前の役者や、撮影クルーと協力しながらつくりますが、それほど大がかりなチームプレーは自分に合っていないと思います。だから撮影する自分とモデルがいれば撮れる、写真がちょうどよかったんですね。

———写真を撮るようになって、特に影響を受けたひとはいますか?

現在、京都造形芸術大学名誉教授をされている鈴鹿芳康先生ですね。当時情報デザイン学科で写真を教えていた鈴鹿先生にお会いする機会がありました。あのころの僕は、学校ではなくてプロの写真師の元で習っている、という自負もあって、自分が撮った写真を鈴鹿先生に見てもらいました。女の子が写っていたり、町の風景などの叙情的な日常を切り取っただけの、いわゆるスナップ写真でした。すると「こんなの興味ないよ」というようなことを言われたんですね。それで反発する気持ちもあって、「先生の作品を見せて欲しいです」と生意気なことを言ったんです。
そんな僕に先生は「きみ面白いな、じゃあ、見せてやろう」と言ってくださって、交流がはじまりました。鈴鹿先生は、偶然にも僕と同じくもともと洋画をやっていたということもあって、通じるものがありました。授業も聴講させていただいて、暗室で直接指導していただくこともありましたね。それから進学した大学院では、情報デザイン学科に転科して鈴鹿先生のゼミで学びました。
鈴鹿先生の下で学んでいると、はじめに「こんなの興味ないよ」と言われた理由がだんだんわかってきたんですよ。それは表現として写真を用いているのか、ただ目の前のものを撮っているだけなのかという違いです。僕がはじめに見せたものは、あとから思うとただのスナップ写真でした。先ほど話したポルノとエロスの話ともリンクしていると思います。それから僕は、あの震災のあとから抱えていた“性というテーマを、写真という表現方法を使って追求するようになっていきました。

———その後、制作した最初の作品はどんなものですか?

デビュー作と言えるのは、《ヨニ・万葉の華が咲くなり》という作品です。屋外でセーラー服を着た女の子が、スカートをまくっている姿を写しました。下には何も履いていないんですが、写真の上から本物の花札を貼り付けてあり局部は見えません。
花札は僕にとって、見てはいけないものの象徴なんです。というのも子どものころ、家で大人が花札をやっていたんです。僕は同じ部屋にも入れてもらえませんでした。襖のすき間から見えた大人の遊びに、淫靡なものを感じとりました。そこに性的なイメージを結び付けたんです。
その後、この作品はシリーズ化して、2014年には石巻で撮影した作品をつくりました。コンセプトを現地の方に説明して、東日本大震災の津波で大きな被害を受け、1軒だけ家が残った場所を案内してくださって、そこで撮ったんです。東日本大震災が起きたとき、あの神戸での辛い記憶を思い返さずにはいられませんでした。
2015年には神戸市の東灘区で撮影した作品も制作しました。どれも僕の頭の中に漂う、これまで体験してきたことのイメージを、つなぎ合わせて再構成したものです。これらを展示した際には、石巻と神戸の作品は向かい合わせに展示しました。この作品が僕なりの追悼のかたちです。

〈LADY MADE 〜少女謹製〜〉シリーズより《少女謹製・舞》。マルセル・デュシャンの〈レディ・メイド〉から着想を得て制作した、〈レディ・メイド少女謹製〉シリーズ。写真ではなく、女性が履いた下着のにおいを嗅ぐ装置である

〈LADY MADE 〜少女謹製〜〉シリーズより《少女謹製・舞》。マルセル・デュシャンの〈レディ・メイド〉から着想を得て制作した、〈レディ・メイド少女謹製〉シリーズ。写真ではなく、女性が履いた下着のにおいを嗅ぐ装置である

———坪口さんの提唱するエロッサンスについて教えてください。

日本に古来からある性文化の復興という意味の造語です。僕は写真を使って性描写をしているといっても、いわゆる緊縛写真や、ヒールを履いて鞭を持った女性の写真など、マルキドサドから派生したような西洋的なものは撮りません。緊縛写真を撮れば「ああ、あれね」というステレオタイプの理解しかされないと思います。
美術・芸術に関わる以上、西洋的な哲学や価値観は無視することはできません。そういう視点でつくった作品は理解しやすいですし、ゆるぎないかっこよさもあると思います。でも僕は日本人として、先人たちが築いてきた文化の延長線上で、作品をつくりたいんです。そうやって現代社会で生きる僕たち日本人を写したいですし、西洋的な価値観に縛られないほうが深いところまで描写できると思っています。

———性に対する日本的な価値観とはどんなものでしょうか?

中世日本の説話集、宇治拾遺物語や今昔物語には性についての話が、笑えるオチとして書かれていたりします。今でいう下ネタですね。そのころから笑いと性が一体になっている文化があったんです。江戸時代には性を扱った表現形式として、春画が花開きました。そこには、町人だけではなく、侍や僧侶、殿様までもが、同列に描かれています。どんな身分のひとでも結局、やることは一緒、という平等な視点があるんですね。それを皮肉って面白がっているところも感じられます。
春画は“わ印という隠語で呼ばれていますし、性器や体位を誇張して描かれてもいて、性をそのまま表現しているわけではありません。西洋的なダイレクトな表現とは違う、“ずらすとか“すかすという独特の価値観が感じられます。僕もそこに共感して、作品をつくり続けています。

ピンホール 大阪re

ピンホールカメラの長時間露光で、男女の行為を撮影した〈P*in hole〉シリーズ。《OSAKA / 08:24》(上)、《KYOTO / 13:30》(下)

ピンホールカメラの長時間露光で、男女の行為を撮影した〈P*in hole〉シリーズ。《OSAKA / 08:24》(上)、《KYOTO / 13:30》(下)

———現在、制作中の作品や、今後の展望について教えてください。

この〈Pin hole〉というシリーズは、ピンホールカメラで男女がまぐわうようすを撮影したものです。露光時間のあいだだけ、裸の僕と女性がそういう行為をしています。ピンホールカメラは、動いているものが残像として映るので、中心の男女の行為をはっきりとは写せません。ですが周囲の脱ぎ散らかした服などのようすから、何が行われているか想像することができると思います。このシリーズはまだ制作を続けていて、47都道府県のすべてで撮影する計画です。

〈婦嶽卅六景〉シリーズより《婦嶽ニ菊》

〈婦嶽卅六景〉シリーズより《婦嶽ニ菊》

〈婦嶽卅六景〉は、日本画のような構図の写真を撮ろうとはじめたシリーズです。水墨画のような淡い雰囲気で、一見何が写っているのかわからないですよね。この花の下にあるのが、お尻なんですよ。挿してある花はすべて変えていて、華道家元が利用している花屋で、日本の花を一輪ずつ買っています。
現在、36人分を目指して撮影しているところで、いろいろと展開するつもりです。襖絵にしたりして、京都の町屋ひとつをしつらえて展示できたらいいですね。

取材・文 大迫知信
2019.1.9 京都の坪口さんのスタジオにてインタビュー

プロフィール写真2

坪口晄弋(つぼぐち・こうぼ)

戯作家(美術家/写真家)。1978年神戸市生まれ。京都造形芸術大学大学院芸術表現科修士課程修了。京都造形芸術大学非常勤講師。17歳のときに発生した阪神淡路大震災で、神戸市東灘区にあった自宅が全壊し、避難所での生活を強いられる。そのときの経験からが創作のテーマとなる。大学院時代より日本の性文化の研究を行い、エロッサンスを提唱。以後、関西を中心に笑いと性、双方を織り交ぜた作品を制作、発表し続けている。

【個展】
2013
せいらぁ ぽとがらひ ~花咲く少女たち~(北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ「ク・ビレ邸」大阪)

2009
わが妄想 ~ツボペリンテストの応用 または 快楽の活用~(ギャラリーマロニエ4F 京都)

2005
わが妄想 ~或ひはコスプレックス療法とする~(ギャラリーマロニエ345F 京都)
称像(Prinz 1F café gallery 京都)
P*IN HOLE(立体ギャラリー射手座 京都)
他多数

【グループ展】
2018
京都極彩秘宝館(Wright商會 京都)
Kao2018(同時代ギャラリー)

2017
Je suis un chat 企画展(ギャラリーマロニエ4F 京都)
DOJIMA RIVER AWARDS 2017 NUDE~(堂島リバーフォーラム 大阪)
二・五次元~絵画考~展(ギャラリーマロニエ4F 京都)

2016
Kao2016(同時代ギャラリー 京都)

2015
室礼~Offering Kyoto Graphy ProgramTHE TERMINAL KYOTO 京都)
Kao2015(同時代ギャラリー 京都)
夜のKAO展 Kao2015特別企画展(gallery PONTO15 京都)
パロマンポルノ・ポスター展 第一部 by Gaku Azuma10Wギャラリー 大阪)
他多数


大迫知信(おおさこ・とものぶ)

京都造形芸術大学文芸表現学科を卒業後、大阪在住のフリーランスライターとなる。国内外で取材を行い、経済誌『Forbes JAPAN』や教育専門誌などで記事を執筆。自身の祖母がつくる料理とエピソードを綴るウェブサイト『おばあめし』を日々更新中(https://obaameshi.com/)。2018年度より京都造形芸術大学非常勤講師。7月23日発売の月刊誌『SAVVY』9月号より「春夏秋冬おばあめし」を連載中。