(2018.07.05公開)
濱田研吾さんは、都内にある編集プロダクションと契約してライターの仕事をする傍ら、徳川夢声を中心とした昭和の名優やタレント、昔の映画、ドラマなどをテーマに、研究と執筆を続けている。亡くなったひと、過ぎ去った時代と向き合うことで見えてくることはどんなことだろうか。さらに“好きなことを続ける”という思いがあるからこそ選ばれた働き方は、好きなことを優先させるか、それとも安定した収入や生活を望むか、思い悩むこともあるわたしたちにとってもヒントになる。
———濱田さんは、京都造形芸術大学芸術学部芸術学科芸術学コース(通学課程)を卒業されているんですね。
ちょうど4年制の大学になってからの4期生なんです。芸術学科は、1、2回生は美術史やデッサンなどを一通り学んで、3回生から文化財科学か芸術学かに専門のコースがわかれて勉強する学科でした。わたしはその芸術学コースを卒業しました。
もともと本を読むことが好きだったんです。だから大学に行くなら文学部かなと漠然と考えていて。でも、古いドラマや映画、演劇も小さい頃から好きだったので、大学に行くのであれば趣味の延長になることをしたいと思っていたこともあったし、なぜかと問われると難しいんですけど、芸大への憧れもあった。芸大って田舎にキャンパスがある大学が多いんですけど、田舎にあるがゆえの広々とした感じもよくて。いくつか受けたなかでも、京都造形芸術大の雰囲気に感動したんです。
———小さい頃から古いドラマや時代劇に関心があったそうですが、それはなぜでしょうか?
自然なことでしたね。よく聞かれるんですけど、親が映画好きでよく見ていたわけでも、おばあちゃんが詳しかったわけでもなく、早く学校から帰って夕方の再放送を見ていたんです。もちろん当時のドラマも見ていたけど、昔の役者さんが好きでした。いい意味でお芝居がくどいというか、貫禄があって。でもそのドラマではある程度歳をとっているひとも、若い頃はスターだったりするんですよね。今風格のある芝居をするひとは、もともとどういう俳優だったんだろう? と思ったらビデオを借りて見たり、本を古本屋で買ったりしていました。高校の近くに大きなレンタルビデオ屋があったので、そこでよく借りていましたね。古い映画やドラマばかり見ていたので、自然とその当時の芸能界で活躍する名前を覚えていて、徳川夢声も、その流れで偶然知ったひとでした。
———その興味から始まり、徳川夢声の本を出版するにまで至られていますね。数いる名優のなかでも、夢声について書こうと思った理由はなんでしょうか?
徳川夢声が生誕100年の時に、『問答有用』という1950年代にやった対談集が出たんですね。当時だとそうそうたる作家、政治家、スポーツ選手とまで丁々発止に対談していて。文芸評論家でもない芸能人が、なぜこれほど有名な方々と会話できるんだろうかと思ったんです。そこで引っかかったのが、いずれ書かなきゃいけない卒論のこと。芸術学を専攻しているのに、研究テーマに映画やテレビを取り上げるのは違うなと思っていたんですよ。でも徳川夢声ならたくさんの作家とも対談しているし、本も100冊以上出していて、アカデミックに書けるんじゃないかと感じて。まずは3回生の時の進級論文で、作家としての徳川夢声論を書いたんです。意外にも先生方から「面白いから、卒論のテーマにしてもいいんじゃないか」という反応が返ってきました。3回生に上がった途端、卒論ゼミが始まるんですが、その時には徳川夢声について書くことがはっきり決まりました。
———調べるにあたって資料は豊富にありましたか?
なかったですね。その頃インターネットもやっていなかったし、今の方が手に入る環境だと思います。当時は古本屋に行ったり、東京に「大宅壮一文庫」という昔の雑誌をたくさん所蔵している図書館があって、そこで雑誌を見せてもらったりしていました。少なかったけど時々、京都文化博物館などで古い映画の上映をやっていて、夢声が出ている作品は見に行っていましたね。放送局に残っている夢声のラジオやテレビの映像も、コネがないと見られないので、先生をたよって元NHKディレクターの鈴木肇さんに、NHKに残っている夢声の映像を見せてもらえないかと頼んで、渋谷の放送センターまで行ったこともあります。ほとんど残っていなかったですけどね。どうやって夢声と出会って資料を集めたかは、その後出版する『徳川夢声と出会った』という本に書いています。今はCSやBSで古い作品も結構放送していますが、当時はそれほどでもなかったので、100あるうち1か2見られたら、そのなかから想像して書くと。そんなかっこいいものでもなく、そういう方法しかなかったんです。
———処女作『徳川夢声と出会った』は、どういった経緯で出版されるにまで至りましたか?
卒業後上京して仕事を始めたんですけど、夢声については引き続き調べていました。2002年に、夢声が朗読した吉川英治の『宮本武蔵』を、新潮社がCDにして出したんです。その解説書に、彼のことを書いてほしいという依頼がきました。
依頼人はわたしと同い年ぐらいの男性編集者で。インターネットでわたしの名前を見つけたのかな、喜んで書きますと引き受けました。彼は全く徳川夢声について知らなくて、同世代のわたしが知っていることに驚いて、夢声はユニークな人で面白いから本を出そうという話で盛り上がったんです。とりあえず原稿を書いて、彼が出版社を探したんですけど、見つからなくて。聞いたこともないライターが徳川夢声なんてマニアックな本を書いたって売れっこないと、お話にならなかったんですよ。でもわたしはただ好きだったから、本ひとつ分ぐらい原稿を書いちゃって。もったいないから自費で印刷所に頼んで、製本してもらったんです。
200冊つくって、とりあえず出版社、作家、永六輔や小沢昭一といった芸能人、夢声のことを慕っていそうな古い放送作家などに送りました。そのなかから繋がって、本にしませんか? とお声がかかりました。その後からちょくちょく夢声の本を復刊する時に解説を書いたり、地方の新聞が夢声について記事を書くからと取材を受けたりなど、今に至ります。
———徳川夢声はもちろんのこと、その後上梓された『脇役本』でも、故人の俳優を多く取り上げられています。リアルタイムで見ていたひとばかりではないと思いますが、そういったある意味“知らない時代”とも言える時代やひとに魅かれるのは、なぜでしょうか?
手に届かない憧れみたいなものでしょうか。大げさな話ではなく、亡くなったひとへの謙虚な思いとか、慕う気持ちがあるんです。実はわたしが上京して2年ぐらい経った頃、母が亡くなったんです。その一ヶ月前には大好きだった滝沢修さんという俳優も亡くなってしまって。尊敬していた方の訃報にショックを受けているなか、もっと近しい存在の母が急に亡くなってしまった。夢声は調べ始めた当時からすでにいなかったけど、そこから亡くなっているひとと書くことで繋がれる喜び、心地よさをなぜか感じるようになったんですよね。故人だから好き勝手書ける部分もあるけれど、だからこそ謙虚でいたい、誠実でいたいという気持ちがあります。編集やライターの仕事でもそうありたいと思っています。結果的にできなくても、人と誠実に向き合いたい。今生きているひととは、取材で直接会えますよね。原稿を書いたら見てもらって、と必然的に丁寧な作業になる一方、亡くなったひとを書く場合は反応してもらえる本人がいない。でもその分謙虚になれるというか。亡くなったひとにファンレターを送っているような気持ちなんです。ペンネームではなく、本名で書いているのもそのためです。『脇役本』でいろんな俳優を取り上げた時は、悪態づいたり批判したりもしました。でも、心のなかにあるのはそのひとのことが好きで、関心があるということ。遺族のために書いているわけではないし、書くことで誰かに認められたいという欲求もないんです。一方で気持ちのどこかにそのひとについて知ってほしいとは思っているんですよ。徳川夢声は特に、忘れられてしまったひとだったので。
———濱田さんにとってそれらは一生涯の研究テーマだと思いますが、一方で編集プロダクションと契約し、編集やライティングのお仕事もされていますね。
編プロでは主に、首都圏を中心に展開する大手生活協同組合の月刊誌、ウェブサイトの編集とライターの仕事を10年ほどしています。テーマは福祉(障害者支援、介護、子育て、貧困対策)、食文化、農業、東日本大震災からの復興支援、まちづくり、環境保全、多文化共生など多岐にわたります。立場上はほとんどフリーです。でも編プロ契約の仕事の場合は、ギャランティの管理はそこがしていて、研究テーマで仕事の依頼がきた時は、編プロは関係なく個人のライターとして受けています。
仕事の9割ぐらいは、無署名のライター業。書き手の主観や個性の出しにくい媒体なので、1か2でも贅沢ですが、夢声や昔の俳優について書いています。とはいえ生協の仕事も面白いし、だから10年続けられたとも思います。
———専門テーマが10割のライター業をしたり、会社管理ではなくすべて自分の収入になるかたちで仕事を受けたり、という働き方は考えられなかったのでしょうか?
そこは仕事を始めた時から割り切っていました。書く仕事をやりたいという気持ちはぶれずにやってきていますが、映画評論家みたいに特定のジャンルを書いて食べていこうとは思わなかったですね。もしそうしようと思ったら、今の映画業界や俳優など、関心のないことも書かないといけないわけで。自分の揺るがないテーマを持ち続けて、好きなことをどこかに小さくでも書く。精神的にはそういうかたちがいい気がします。なおかつ専門外の仕事であっても、そこに楽しみを見出して柔軟に対応していく、そうやって両仕事のバランスをとっていくと、心が安定する気がします。わたしの場合は定期的な仕事が続いているし、いいバランスが取れているので恵まれているのかもしれません。
もしかするといずれ、いただいている仕事も個人契約になる時期がくるかもしれませんが、今は難しいでしょうね。あるメーカーさんの社史の仕事も始めていますし、何より自分の生活のためでもあります。一度クライアントの生協の仕事を専属でやらないかと誘われたこともあるんですけど、それをやってしまうと個人のテーマでの仕事ができなくなっちゃうので。意地でも好きなことは続けていきたい気持ちがあるので、収入は安定するだろうけど、また別の組織に入ることを今は考えていません。
———違うジャンルを両立させながらの働き方は、読者の方にとってもヒントになる気がします。
もちろん仕事で「本当に自分の書きたいことなのかな」ともやもやしていたこともあるんです。重いテーマを取り上げることもあるので、やりがいはあるんだけどいろんな自問自答もあります。だけど今回タイミングよく、徳川夢声の『話術』が文庫化するにあたり解説を書かせていただけたのと、13年前に出した『脇役本』が文庫化しました。どちらも2018年4月に出ました。1998年4月に上京したので、ちょうど自分にとって20年の節目なんです。徳川夢声も『脇役本』もずっと続けていたテーマだったので、このタイミングで出せたのは偶然にしても励みになりました。神様が、もうちょっと頑張りなさいよってことかな、と(笑)。夢声の本が文庫化されることもあまりないので、そのぐらい奇跡なんです。
『脇役本』は、書きたい情報が増えたので、増補文庫にして出したいとツイッターでつぶやいたら、それをちくま文庫の担当の方が見てくださって。ツイッターはガス抜きのおもちゃみたいな感じで、好きな俳優のことを発信するツールだったんですが、こんなご縁につながりました。
ひとのためというより自分のために、好きだから書いてきているんですけど、振り返ると学生の時の論文で、先生方に後押ししてもらったから続けてこられたと思います。卒論提出後の教授面談で、先生方が褒めてくれて、学長賞をもらいました。その時、「専門家には誰でもなれるから、専門家で終わらないように」と言われました。調べて書くことは誰でもできるけど、そうじゃない深みを目指しなさい、という意味だったと思います。その経験はすごく励みになりましたね。
●イベント情報
『脇役本』の出版を記念し、濱田さんが登壇するイベントを、東京・東中野のポレポレ坐にて7月15日(日)開催。秘蔵の俳優の声レコードを聴く“脇役盤”イベントだそう。詳細はウェブサイトのチェックを。
ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー Vol.8
feat. 濵田研吾(脇役盤)
日時/2018年7月15日(日)
時間/開場18:30、開演19:00
場所/ポレポレ坐(http://za.polepoletimes.jp/)
住所/東京都中野区東中野4丁目4−1 ポレポレ坐ビル1F
参加費/2,000円(1ドリンク付き)
取材・文 浪花朱音
2018.06.11 オンライン通話にてインタビュー
濱田研吾(はまだ・けんご)
1974年、大阪府生まれ。京都造形芸術大学芸術学科芸術学コース卒業。都内の編集プロダクションで、単行本や社史の編集を手がけ、現在はライターとして、大手生活協同組合の各種媒体に執筆。その傍ら、日本映画・放送史、広告文化史などの執筆を続ける。著書に『徳川夢声と出会った』(晶文社)、『三國一朗の世界 あるマルチ放送タレントの昭和史』(清流出版)、『鉄道公安官と呼ばれた男たち』(交通新聞社新書)、『脇役本 増補文庫版』(ちくま文庫)など。編著『夢声戦中日記』(中公文庫)をはじめ、徳川夢声の復刊本の編集や解説を手がける。
『脇役本 増補文庫版』濱田研吾著、ちくま文庫、2018年
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『話術』徳川夢声著、濱田研吾(解説)、新潮文庫、2018年
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『徳川夢声と出会った』濱田研吾著、晶文社、2003年
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浪花朱音(なにわ・あかね)
1992年鳥取県生まれ。京都造形芸術大学を卒業後、京都の編集プロダクションにて、書籍の編集・執筆に携わる。退職後はフリーランスとして仕事をする傍ら、京都岡崎 蔦屋書店にてブックコンシェルジュも担当。現在はポーランドに住居を移し、ライティングを中心に活動中。