(2015.04.05公開)
「まちは通りから発生している」。魅力的な建築空間の前には魅力的な小径があり、ひとは必ずそこを通ってくる。建築家であり、京都造形芸術大学名誉教授の大石義一さんは建築に軸を置きながらも、まちや都市そしてそこから発生する地域の人々の関わりにも注目してきた。教員を退職されたいま、大石さんは移り住んだ滋賀県高津市今津の地にてヴォーリズ建築の保存と再生活動に力を入れている。建築された空間がわたしたちに呼びかけているものとはどのようなものなのだろうか。
——建築に興味を持たれたきっかけはなんですか?
学生時代、中南米に興味を持っていたので、京都外国語大学エスパニア語学科で学んでいました。しかし卒業を控えて自分の将来で、やりたいことがたくさんあったので迷っていました。ちょうどその当時、ブラジルの首都であるブラジリアが新しい都市として脚光を浴びていて、「新都市での建築って面白そうだな」と興味が湧いたんです。新たな地に都市と建築が生まれ、そこに人々が移り住んで新しいまちをつくる。それは当時の僕にとってとても衝撃的で魅力的なことでした。そこで建築をやろうと決めました。
——ということは、建築は独学で学ばれたということですか?
大学卒業後に設計事務所に入ったので、実務を中心に先輩たちから学びながら独学で身につけました。そのまま5年ほど事務所で勉強して経験を積み、実務的なことは十分ではないけれども、建築の世界がどういったものかはだいたい見通しがついたので、事務所を辞めて都市や町家に詳しい先生がいる京都大学の建築系の研究室に入りました。
この世界でコツコツやっていくか、さらに広がってきた自分のやりたいことに目を向けていくか考えたとき、建築の世界にいながらも自分が興味をもった都市や町家などの世界について、もう一歩視野を広げていこうと思ったんです。研究生を修了して30歳のときに設計事務所をつくって独立しました。
——独立されてからは、建築設計だけでなく都市や地域の問題にも目を向けていくということを意識しておられたとのことですが、それはどういったことですか?
僕は町家やまちというものにもともと興味があったのですが、日本のまちというのは概ね「通り」から発生しているんですよ。小さな通りや街道のような通りを軸に宿場ができたり、あるいは通りを軸に門前町ならお寺や神社があったり、その参道の周りに店舗ができ、それは道を介してコミュニケーションが生まれるということにもつながる。それは日本のひとたちの人間関係をつくっていくために非常に重要な「道文化」なんです。
「向こう三軒両隣」という言葉がありますが、お向かいさんとお隣さんは表に出たら毎日挨拶するし、元気かどうかようすもわかる。情報はすべてそこを通ってきて、まちは形成されていく。だから道というのは今で言うまさにネットワークでもあるんですよね。アナログで単純な世界ではありますけど、道を介してひとの流れ、ものの流れ、情報の流れがあったわけです。でもそういったまちの魅力が今だんだんとなくなりかけている気がします。
——たしかにわたしも近所のひとのことをほとんど知らないというのが現状です。道を介して生まれるまちの魅力を現代に蘇らせるために、どういった活動をされていますか。
再生しようとしている今の日本のまちは古いまちがほとんどで、そこには必ず道があり、自然的に発生してできた道もあれば、計画的につくられた道もあります。それがどのように使われ、どのようなコミュニケーションが生まれていたか、そして現代までそれがどのように使われ続けていたかということを観察しなければいけないわけです。
「道文化」を再生するために、例えば古い建物が残っているとか、まだがんばって続けているお店がぽつぽつ残っているとかを手がかりのひとつににします。かつての「道文化」がどんなふうに生きていたかを観察する。そこにヒントをもらいながら、新しいまちづくりをしていく。かつての日本にあった「道文化」を取り戻すことが、まちおこしのひとつのキーポイントだと思ってます。
——建物ではなく、道が重要なんですね。
建物はきっかけにはなります。まちに古い建物があり、それなりの由緒があって、なおかつ住民に好かれているものだとしたら、まちのひとたちにとっても価値や愛着のある建物になるので、守る意味を細かく考えなくとも「守らないかん」と思うじゃないですか。逆にそういう建築がまちづくりの拠点のひとつになります。
——それは現在の大石さんが取り組まれている旧今津郵便局での活動に反映されていますよね。ウィリアム・ヴォーリズ*が設計した建物を拠点にされたことも、まちづくりのきっかけにするためだったのでしょうか?
いえ、実は初めからそのつもりでヴォーリズ建築に目を留めたわけじゃないんです。2年半前に京都から滋賀の今津というまちに引っ越しました。琵琶湖がすぐ近くにあるのでなんとなくその周辺を見ていたら、「ヴォーリズ通り」という名の通りがあったんです。もちろんヴォーリズという建築家は知っていましたが、そのまちに彼の建築があることはまったく知りませんでした。
通りにはヴォーリズの建物が3軒あり、ひとつはかつての銀行でそれは市がリニューアルして今はヴォーリズ資料館として開館し、2つ目は教会で現在も教会として残っています。そして3つ目がこの旧今津郵便局だったんです。郵便局は35年ほど前に郵便局としての役割を終え、その後はずっと倉庫になっていたんです。外観はそのまま残っていたのですが、だいぶ老朽化が進んでいて、あと2年か3年でダメになってしまうだろうという状態でした。
*……ウィリアム・メレル・ヴォーリズ/William Merrell Vories(1880‐1964)アメリカ合衆国出身。代表作には「日本基督教団大阪教会」「旧神戸ユニオン教会」「京都大学基督教青年会館」「大丸心斎橋店」など日本で数多くの西洋建築を設計した。プロテスタントの伝道師でもあり、日本国籍を取得し和名に改名するほど日本に親しんでいた。
——せっかく残っているのにもったいないですね。
そう。なので、市役所に行ったり持ち主に相談したりして、保存再生の可能性はあるのか? と話を持ちかけました。半年ぐらい話してるうちに、住民による保存活動を立ち上げるのが再生のいちばんの近道だと知り、一度地元のひとを集めて話し合いましょうということになりました。わたしも含めて保存再生に興味があるひとが集まり、活動が始まりました。持ち主の方も使ってもらうことは構わないということで、その後3、4ヵ月かけて中の荷物も全部出して大掃除したんです。そのとき、35年ものあいだ、閉じられたままの郵便局の窓を開けてあげたら、建物が「ふう~」と、息を吹き返したように感じました。
——やっとひと息つけたような。
そう。そのときはすごく感動したんですよね。一緒に作業していたほかのひとも表現は別でも同じことを感じられていました。なのでなんとかここをもっと元気にしようという共有の機運が高まりました。もともと重病人だったひとがなんとか元気が戻って退院はしたけど、まだひとりではまともに歩けないといった状態。だからもっともっとケアやリハビリをしてあげないといけないわけです。
——何かすでに行われている活動はありますか?
ヴォーリズ通りには小さい公園があるんですけど、実はそこでジャズのイベントが行われていたんです。「ヴォーリズジャズナイト」っていうくらいだから商店街みんな元気に灯りがついていて、そこから曲が聴こえてくるんだろうと思って行ってみたのですが、ずーっと通りが真っ暗なままだったんです。
これじゃいけないと、先ほどの旧今津郵便局を拠点にしてジャズナイトを応援する活動を呼びかけ、去年の夏のジャズナイトでは通りに灯りをともすことを実現させました。ジャズナイトに向かうひとが通りを歩く、こうしてひとが歩き始めると店も元気になりますから、まずは通りにひとが歩き始めるための活動をこれからしていこうと思っています。
——大石先生は長らく京都造形芸術大学で先生をされていましたが、実務と教育するうえでの建築にはなにか違いや繋がりがあると感じられますか?
そうですね。学生から教えられることがいっぱいあるということです。10代後半から20代前半のひとたちが持つアンテナをわたし自身日常的にキャッチでき、時代の価値の変化がすごくわかりやすくなりました。
仕事を始め、年を経るごとについつい忘れがちになっていくものですが、20代の彼らの迷いや希望、夢などから得るものはたくさんあり、それは僕の実務のなかにも確かに反映されています。
——特に意識して学生に伝えたいことはありますか?
建築の技法や技術、それから歴史などは当然ですが、僕が特に彼らに話しているのは観察力といった「ものをみる術」。僕らはこうやって目を開けて見ているけれども、ただみるだけじゃなくてそれにともなって頭で別のことを考えることが必要。そういった力はひとが住宅に住むうえでどんな生活をするのか想像するときに必要なんです。つまり観察と想像。きちっと観察してその未来や今見えていないものを想像する力がとても大切です。
また、学生にいつも聞くんですよ。君が恋人に振られたらどこで泣くだろう、家に帰って泣く場所があるのかって。それはお風呂やトイレやベッドの上だとかいろいろな答えがあると思いますけど、僕にとって魅力的なのはそういったすでに目的を持っている空間ではないんです。
むかし、家の真ん中に廊下があって夕方になっても電気もつけず、そこにじっと座っていた記憶があるんですよ。きっと心が寂しかった時だと思いますが、誰も家族がいなかったので、僕は自分の部屋で思い悩むんじゃなくて廊下で体育座りしながらじーっとしていたんです。廊下は通路で、寝る、食べる、話をするという目的をもってないところですよね。でもそこに佇んでいることでなんとなく遠くと交信できる。いろいろと思い悩んでいたことがピュアに考えられるんです。でもそれが例えば台所だったら、思い悩んでる途中で何か食べたくなってきちゃう(笑)。
だからそういう雑念が混じってこない空間が住宅のどこかにあると魅力的だと思うんです。
——今後の構想なども踏まえて、大石さんは建築された空間が人々にとってどういった存在であることを願いますか?
ひとがひとりきりで生きられず集団でしか生きられないというのと同じように、建築だってひとつきりでは生きられない。僕は建築というのは群れをなして美しくあるべきだと思っています。これはまち並みにもつながるし、都市計画にもつながる。
また逆に、建築はひとつでも美しくないといけないと思っています。先ほど住宅のなかで自分の心が病んだときにどこにいるのか話しましたが、同じようにまちのなかで、ひとり沈み思い悩んだときにどこに行くのか。海や山を見に行くというひとがいますが、都市には海も山もないことが多いですよね。そのときに、あるひとつの建築がひとの心を和やかにしてくれるかもしれない。ちょっとした喫茶店がその役割を果たすこともあると思います。つまりそこに流れる音やお茶なども含め、自分を日常から離れた異空間に連れて行ってくれる。その異空間というものはひとそれぞれ違うものなので、それをどれだけ用意できるかということが、建築の使命だと思います。
——ということは、それは住宅のなかに異空間をつくるということにつながるのでしょうか。
そうですね。住宅のなかの異空間というと、たとえば先ほど言った廊下かもしれない。
日常生活からワープできるような空間があることが、とても重要な気がするんです。でもそれはひとそれぞれなので、建築している側にとっては「え、そこがいいの?」と驚くようなところだったりします。
例えば、ここからは富士山が見えていい景色だからと窓を大きく設けたとします。よく見えて綺麗ですね、と誰からも言ってもらえるとは思います。でも、その窓よりもトイレにある窓のほうがとなりの草木が見えて落ち着くと言うひとがいるかもしれない。それを意図してトイレに窓を付けたわけではないけれども、そこにそういう気持ちを持つひとがいるかもしれないと考えて窓を設けるのと、たんに明かり取りと臭気抜きで設けるのとでは空間の緊張感が違いますよね。だから窓ひとつ設置するのにもすごく慎重にならざるをえない。だけど、それが建築の面白いところ。これから何十年先までもそこで暮らすひと達がその何十年も先の未来になったとき、住宅という空間のあちらこちらに、自分の世界を取り戻せるような場面をつくってあげたいと思うんです。
インタビュー・文 中野千秋
2月28日 京都造形芸術大学にて取材
大石義一(おおいし・よしかず)
1943年生まれ。大阪市出身。京都造形芸術大学名誉教授。
京都外国語大学を卒業後、幾つかの建築事務所・都市計画事務所にて修業を経て、京都大学工学部建築学教室上田篤研究室の研究生として指導を受ける。30歳で設計事務所を主宰し独立。1980年には事務所を「大石義一建築アトリエ」に改称し、軸足は建築に置きつつも、都市や地域の問題に関わりながら設計を続けている。30代半ばからは京都芸術短期大学、その後京都造形芸術大学環境デザイン学科の教員となる。退職した今、滋賀県高島市今津にてヴォーリズ建築の再生活動に力を入れている。
中野千秋(なかの・ちあき)
1993年長崎県生まれ。京都造形芸術大学クリエイティブ・ライティングコース所属。インタビュー&フリーペーパー制作を主とした『Interview! プロジェクト』にて1年間活動。そのほか、職業人インタビュー『はたらく!!』の制作や京都造形芸術大学の『卒展新聞』などに寄稿。