アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

風を知るひと 自分の仕事は自分でつくる。日本全国に見る情熱ある開拓者を探して。

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#27

わたしたちのアイデンティティとしての、そして未来に繋がる遺産
― 加藤つむぎ

(2015.02.05公開)

幼少期より遺産という過去の産物に強く惹かれていた加藤つむぎさん。なかでも中米に存在している数々の文化遺産に興味をもった加藤さんは、4年制大学で語学を、京都造形芸術大学そして同大学院にて文化財の保存修復を学びながら、遺跡の発掘プロジェクト等で活発に活動し憧れだった遺跡との距離を縮めてきた。現地での修復作業など、多くの遺跡やピラミッドといった建造物、そしてその土地の人々と積極的に触れ合ってきた加藤さんは、現在、東京の平和祈念展示資料館にて学芸員を務めている。彼女が知り得た遺産の持つ意味とは、そして歴史から学ぶべき大切なこととはどのようなものなのだろうか。

——京都造形芸術大学大学院にて文化財の保存修復について学ばれたそうですが、文化遺産や世界遺産など考古学の分野に興味を持たれたきっかけはなんでしょうか。

小学生の頃、自宅の本棚にあった『未来への遺産』*1という遺跡の写真集が大好きで、今思うとそれが文化財に興味を持つきっかけでした。中米のグァテマラという国にある、ティカル*2という遺跡の写真がとても神秘的で、なんども目を通したのを覚えています。

*1……1974年3月から翌年12月までNHK放送開始50周年記念番組として放送された大型ドキュメンタリー番組。
*2……マヤ文明の政治・経済中心都市として紀元4世紀から9世紀にかけて栄える。1979年世界遺産の複合遺産に登録された。

——大学院に入る前は何をされていましたか?

スペイン語が話せれば、ツアーコンダクターなどの仕事に就いて中米の遺跡のガイドができるかもしれないという漠然とした期待がきっかけとなり、京都外国語大学のスペイン語学科に入学しました。ですが、そこで中米エルサルバドル共和国のマヤ遺跡の発掘プロジェクトを実施されていた大井邦明教授*3との出会いが、わたしに多くのチャンスをくれました。大学3年時に受講したゼミ以降お世話になるのですが、実は入学当初から大ファンで、大井教授の考古学の授業だけは欠かさず出席していました。大井教授にわたしが中米の考古学に興味があるという話をしたところ、ちょうどグァテマラで発掘した遺跡の報告書を書いているところだから、図版の作成を手伝ってみないかと声をかけていただいたんです。実際にわたしが書いたいくつかの図版を、『カミナルフユ』というたばこと塩の博物館*4が出した報告書に載せていただきました。
大学卒業後は、京都文化博物館で発掘をさせてもらいながら考古学についての知識を深めました。その後、大井教授のエルサルバドルの発掘プロジェクトのお手伝いをしていた際、文化遺産保存の勉強をしてみてはどうかとのアドバイスを受けて、京都造形芸術大学の文化財科学コースの3年生に編入し、文化財の保存修復についての勉強を始めました。翌年は、同コースで4回生を飛ばして大学院に進みました。

*3……大井邦明(1944-2009年):単身メキシコにわたりメキシコ考古学界の重鎮ピニャ・チャン博士(1920-2001年)のもとで考古学を学ぶ。京都外国語大学名誉教授。
*4……日本たばこ産業が運営する企業博物館。現在、渋谷区から墨田区への移転・リニューアルのため休館中。

——大学院ではどのようなことを学ばれましたか?

主に中米の遺跡の保存修復について学びました。わたしがフィールドとしたエルサルバドルは1年が雨季と乾季に分かれた温湿度の差が激しい地域です。チャルチュアパ遺跡という広い範囲を総称する遺跡のあるカサブランカ地区というところにいました。そこには紀元前につくられた土でできたピラミッドがあるのですが、経年による劣化や後世の人々による破壊によって形状を保つのが非常に難しい状態となっていました。大学院ではこういった現地での実験や事例調査に有効な修復材について研究しました。大学院を卒業したあと、実際に青年海外協力隊として現地に赴き土でできたピラミッドの保存修復作業を行いました。

カサブランカ遺跡

カサブランカ遺跡。ゆるやかな傾斜のピラミッドとなっている

サンアンドレス遺跡
タスマル遺跡

(左から)サンアンドレス遺跡とタスマル遺跡

エルサルバドル1
エルサルバドル2

(左から)エルサルバドルの景観とサンサルバドルの教会

——「ピラミッド」と聞くと、おそらくいちばん有名かと思われます古代エジプトのものを想像するのですが、土でつくられたピラミッドというのはどういったものなのでしょうか。また現地での実験とは具体的にどういったことをされたのでしょうか。

土でつくられたピラミッドの特徴としては、何世代ものピラミッドが幾層にも重なっていることが挙げられます。そもそも中米に建築されたものの特徴として、土でも石でも建材を問わず、古い建物を覆うようにして次の時代の建物がつくられているんです。
現地では、アドベと呼ばれる日干しレンガを用いて、日本から持ち込んだ石材硬化剤や薬品による保存処理がどれほど有効なのかを条件を変えて実験していました。ずっと現地に留まるわけにもいかないので、発掘プロジェクトで長く現地に滞在されていた日本人の先輩や、現地の作業員さん、そのほか多くの方にご協力いただき、助けて頂きました。今になって改めて、本当にありがたいことだったと感謝しています。

アドベ
実験

(左から)実験に使用したアドベと呼ばれる日干しレンガ / 採取した土に修復用の土や石灰を混ぜ、乾燥時の状態を調査する

土層1
土層2
土層3
土層4

調査、そして保存のために遺跡の土層表面を剥ぎ取る「遺構断面の転写」作業の様子。剥ぎ取った土層のひとつが現在、現地の遺跡博物館にて展示されている

——土でできたピラミッドの保存にはどういった手法を用いましたか?

雨季と乾季からなる現地の気候のなかで、土でできたピラミッドを保存するのは容易なことではありません。大学時代に遺跡の修復作業用にと試験していた石材硬化剤といった化学薬品はほとんど使用できませんでした。薬剤そのものが高価であり、また、地面と接している遺跡にどれだけの硬化剤を塗布したら有効なのか、正直よくわからなかったからです。それよりも、日々メンテナンスをおこなって遺跡が崩壊しないように保つことが必要ではないかと考えました。そのためには、現地エルサルバドルのひとびとが、自分たちの手で継続していける方法を見つけなければいけません。当時、雨季の激しい雨によってピラミッドの表面が痛み、内部の土がどんどん流出してしまっていました。その際はピラミッドの表面に芝を貼り付けるという方法で流出を防ぎました。現地で暮らすひとたちが継続できる修復方法を提案するというのは、ライフスタイルや考え方、それぞれの事情を知れば知るほど、難しい作業でした。

芝はりつけ

ピラミッドの表面に芝を貼り付けることで、内部の土の流出を防ぐ。写真は現地の作業員の方々

——研究が進むことでより有能な修復方法が編み出されたとしても、日本を出てしまうとほとんど通用しなくなってしまうというのは、本当に難しい問題というか現状を知ることの重要性を感じます。加藤さんはどのくらい現地での活動に携わられたのでしょうか?

まず青年海外協力隊に参加する前、大学院を卒業してからは、京都造形芸術大学の歴史遺産学科にて学科事務を3年勤めさせていただいたのですが、その間も夏休みは長期の休みをいただいて、研究のためエルサルバドルに行っていました。歴史遺産学科の先生方や、大学の事務の皆様が、卒業生ということもあってわたしの活動にとても深く理解を示してくださり、そのおかげで、研究を続けることができました。その後、青年海外協力隊として3年間、エルサルバドル共和国で遺跡保存の仕事に携わっています。

協力隊1
協力隊2

青年海外協力隊としての活動の様子。現地の小学生に文化財保護の授業を行った

博物館1
博物館2

加藤さんが青年海外協力隊として活動していたカサブランカ遺跡公園内にある付設博物館

協力隊3

日本大使館の協力でカサブランカ遺跡公園内でイベントを行った(写真右が加藤さん)

——現在の、平和祈念展示資料館に勤められるようになったきっかけはなんですか?

青年海外協力隊から戻り、その後筑波大学の地域再生と観光戦略プロジェクトの研究員として、地域のなかの文化遺産を生かしてどのように地域を活性化するかということを研究していました。震災前でしたし、地域の遺産は今ほど脚光を浴びていなかったように思います。そのプロジェクトが終了したため、就職活動をしていたときに、たまたま募集を見つけて応募しました。

——平和祈念展示資料館はどういった施設なのでしょうか。

日中戦争や太平洋戦争における兵士、戦後強制抑留者、海外からの引揚者の労苦を扱った総務省の資料館です。戦争というと、原爆や空襲を思い浮かべる方が多いと思いますが、平和祈念展示資料館では、おもに戦争が終わったあとも続いたシベリア抑留や、引揚げといったことをテーマに展示をおこなっています。このことは意外と知られていないのではないでしょうか。

——確かに、原爆や空襲といった戦時中の出来事を耳にする機会はありましたが、戦後の日本が受けた苦しみについてはほとんど知りませんでした。平和祈念展示資料館の学芸員として、どのようなお仕事をされているのでしょうか。

資料の保存や整理、企画展の担当、アウトリーチ活動(館外活動)、館内イベントなど、学芸員は雑芸員と呼ばれるとおり、仕事内容は多岐にわたります。これまでは古代遺跡の修復活動が主体だったのに対し、近現代史の分野である戦時中の資料の管理やメンテナンスなどを担当しています。また今年から、資料の総合目録を作成する業務をおこなっており、資料を後世に確実に伝えるために、たいへん意義のある仕事だと思っています。

展示解説1

学芸員による展示解説の様子。資料を実際に手にとって見てもらうため展示解説を企画した

——文化財、そして平和祈念展示資料館にある戦後の兵士たちの暮らしがわかる遺品など、過去の出来事を未来に伝えていくのに重要な役割を担う遺産は日本にも海外にも多く存在していますが、加藤さんがそれらのものと関わり続ける理由はなんでしょうか。

中米の文化遺産に携わるなかで、“自分たちのアイデンティティとしての遺産”というものを深く考えることができました。それは、その後の仕事にも大きく影響したと思います。そして、戦争に関する資料を扱う現在、歴史から学ぶことの重要性を深く感じています。実はシベリア抑留や海外からの引揚げについては、今の仕事に就くまではよく知りませんでした。しかし、この国に住んでいる以上、知っておくべきことだと感じるようになりました。
戦後70年を迎え、戦争体験者から直接その体験を聞くことができなくなる日が近くなっています。今しかできないこと、今やっておくべきことは何か。そういったことを念頭に仕事に取り組んでいます。歴史を知ることだけではなく、全てのことについて言えますが、知らなかったことを学ぶ喜びをいつも感じていたいですし、今の仕事を通じて伝えていけたらと思っています。

企画展

加藤さんが担当された企画展でのギャラリートークの様子

——“自分たちのアイデンティティとしての遺産”の「自分たち」とは、文化遺産を持つ国民もしくは地域の住民解釈して間違いないでしょうか。“自分たちのアイデンティティとしての遺産”という存在価値を理解することで、よりそういうものへの扱い方、関わり方が変わってくるといいますか、生半可な気持ちで向き合ってはいけないなと感じます。

「自分たち」を「わたしたち」に置き換えてもいいと思います。海外旅行中に、日本にはどんな観光名所がありますかと尋ねられたとして、たとえば「日本には江戸時代の天守閣が残る美しい姫路城があります」と説明するとき、ちょっと誇らしい気分になるような。普段は意識していないと思いますが、アイデンティティとは、歴史や遺産などの祖先が活動していた痕跡や自分のルーツを知ることで、心の拠りどころとしていつの間にか自分のなかに浸透していくものではないかと思っています。

加藤さんプロフィール写真

加藤つむぎ(かとう・つむぎ)
1972年兵庫県生まれ。京都外国語大学スペイン語学科を卒業後、京都文化博物館で発掘をしながら考古学を学ぶ。その後、京都造形芸術大学の文化財科学コース、そして京都造形芸術大学大学院修士課程芸術学専攻にて文化財保存修復について学ぶ。同大学歴史遺産学科勤務の後、青年海外協力隊隊員として2003年より2005年まで中米エルサルバドル共和国にて活動。帰国後、京都市の文化財保護課に半年間勤務したのち、筑波大学の地域再生と観光戦略プロジェクト研究員として4年間を過ごす。プロジェクト終了後、平和祈念展示資料館に学芸員として就職し現在に至る。

中野千秋(なかの・ちあき)
1993年長崎県生まれ。京都造形芸術大学クリエイティブ・ライティングコース所属。インタビュー&フリーペーパー制作を主とした『Interview! プロジェクト』にて1年間活動。そのほか、職業人インタビュー『はたらく!!』の制作や京都造形芸術大学の『卒展新聞』などに寄稿。