(2024.04.14公開)
アーティスト・越中正人(こしなか・まさひと)さんは、「集団における個」との関係性、「ある集団に生まれる画一的なイメージ」をテーマとし、写真や映像を用いた作品を発表してきた。労働、結婚、そして死など、誰にとってもひとごとではない事象に目を向け、時にストレートに、時にウィットに富んだかたちで、無根拠なイメージに覆われ、置き換えられ、見えにくくなった「個」を映し出す。また、コロナ禍にアーティスト・ラン・スペースであるヨコスカアートセンターを立ち上げ、横須賀市の商店街を起点に、アートによる様々な広がり、可能性を生み出そうと奔走する実践者でもある。現在も新作の展覧会を準備中の越中さんに、これまでの制作のこと、アートスペースを運営していくことについて伺った。
———まずは、2008年の写真作品〈double word〉について教えてください。
同じ花でも一輪の花の状態と複数の花、花畑の状態ではそこから想起されるイメージが異なると思います。例えば一輪では何かを想起しなくても、複数になるとオランダのチューリップ畑、北海道のラベンダー畑などを想起することがあるように。
この作品では、菖蒲とコスモスと桜を撮ったんですけれども、例えば菖蒲だったら、菖蒲園に行って、菖蒲畑の写真を撮ります。それをプリントアウトすると、1枚の菖蒲の写真プリントができます。そして、その写真プリントの上に、本物の菖蒲の花を置いてもう一度撮影する。もう枯れることのない写真の中の菖蒲と、時間が経つにつれ枯れていく実物の菖蒲を1枚に収めました。
それまでも「集団と個」をテーマとした作品をつくってきたのですが、〈double word〉ではより時間的な感覚を作品の中に記したいなと思いました。正確には、英語の「life」の感覚に近いのですが、「life」を作品の中に加えることによって、集団と、その中の個におけるイメージの変化と現実味を強調しています。
———集団と個をテーマに作品をつくり始めたきっかけはなんだったのでしょうか。
生まれて初めて鳥取砂丘に行ったときに、これは結構すごいじゃないかと思って、テンションが上がったんですね。すごいドキドキしてたんだけれど、ふと遠くを見ると、人が点、点、点と見えたんですよ。その時に、自分は今ドキドキしているけど、遠くから見るとその気持ちも点、点、点かと思ったわけです。完全に個人が消失しているわけですね。そこから、点と自分の違いを考えたりして。見る位置によって、人に対する感じ方や存在価値が変わってくること、集団でいる場合と、個人でいる場合での、同じ目的のためにそこにいても周りからのアイデンティティの見え方が変化することは面白いなと思って、制作が始まっていったと思います。
———2018年ごろから、「働き方」をテーマにいくつかの作品をつくられています。その中のひとつ、ベトナムの技能実習生に取材をした作品についてお聞きします。
日本の技能実習生制度については、劣悪な労働環境がニュースになっていて、みなさんご存知だと思うんですけれども、ベトナムには日本で働くにあたって、語学や日本の文化・社会などを勉強する送り出し機関と呼ばれる施設があります。この作品では、その送り出し機関で日本のことを学ぶ人々に、「日本に行って何をしたいか」という質問に答えてもらった作品です。日本にも、日本に来たベトナム人の技能実習生をサポートしている団体があって、その人たちにまずアポとって、ベトナム現地での取材が実現しました。
技能実習生が日本でひどい扱いを受けるかもしれないことを分かって、それでもベトナムの人たちは日本に来ているということ。それは正直、僕の理解をちょっと超えていて、だから彼らの根源的なものを知りたいと思ったのがこの作品をつくった動機ですね。
僕たちは就職氷河期世代で、友人の中には、仕事がうまくいかなくてトイレも風呂も無いところで生活しないといけない人もいたりして。働くことの価値や意味が画一化されているように思える中で、働き方について考える作品をいくつかつくっていました。
人がたくさん集まったときに、本来だったら色々な考え、多様性が生まれるはずなんですけれども、生まれていないですよね。結局、定まったテンプレートな考え方、画一化した答えしか選ばれないことの方が多い。では、その画一化しているものはなんだという疑問からも作品をつくっているんです。
———制作において特に大事にされていることはなんでしょう。また近年は、より社会問題をドキュメンタリー的に扱われていますが、日々流れてくるたくさんの情報をどう作品化していくのでしょうか。
自己完結でとどまる作品はつくりたくないと思っていて、社会との関わりだったりとか、あと歴史との関わりは常に考えて作品をつくっていますね。僕はイマジナリーな部分だけで作品をつくれないというか、あまりそこに対して興味がないんです。自分が今生きている環境、社会、日々の生活から生まれるものを発端にしないと、僕自身がつくって発表する意味があるのかとか思うんですね。
ある時期、もっと社会のことに敏感にならないと駄目だと思って、新聞社に入社して電子版のための見出しづくりの仕事をしたり、映像ディレクターをした期間もあります。作品のためのアイデアメモは大量にあって、とりあえず気になったことをスマホでメモしていると、ある日突然、何かと何かが合体するんです。
———社会問題を眼差した作品では、他にも2015年の作品《hello…》において「孤独死」を取り扱っています。
兵庫県の神戸市に、阪神淡路大震災で被災した人たちの復興支援住宅があるのですが、その地域は非常に孤独死が多いと報道されていたんですね。そんな人たちを救うために高齢者への見守りサービスを行っているNPO団体があって、そのNPOが全戸にノックをして、大丈夫ですかと聞いてまわる様子を取材した作品です。
この作品は、「孤独死とはなんだろう」というところから始まっています。何をもって孤独なのか、誰が孤独と言っていのるかも分からない、結局メディアが考えを持て余して使っているだけの言葉じゃないかと。死の尊厳の画一化ですよね。また、コンコンコンとドアを叩いて「大丈夫ですか」と問う行為というか、そのようなコミュニケーション自体も不思議な話じゃないですか。実際に訪問されている人に話を聞くと、辛辣に追い返している人の方が多いんですね。普通に仲良く喋る人はあまりいないという実情がありました。サポートしているボランティア側が注目されがちですが、訪問されている人々のことはあまり想像できていなかった感じがしました。
———越中さんはアーティスト・ラン・スペースの運営者でもあります。主宰するヨコスカアートセンターについて教えてください。
コロナ禍の真っ只中、2020年に立ち上げた、横須賀の商店街にあるアートセンターです。1階が展示スペースで、2階が僕のアトリエ兼事務所です。元々は僕のアトリエが葉山にあって、葉山って静かで生活しやすくて、本当にいいところなんですけれども、今の情報化社会の中で、何かひっそり仙人みたいなことしていいのかなとふと思ってしまって(笑)、今は何かをしたらいろんなところへ結びついたり、情報発信ができる時代じゃないですか。だから、せっかく縁もゆかりもない横須賀市内に移住したことを契機に、自分という身ひとつで、どんな広がりを生み出せるのか試してみたいと思ったんです。もちろん僕にできることはアートだから、アートによって地域との繋がりやお金をつくり出せないかと思って。コミュニケーションアートという考え方があるんですけど、実はヨコスカアートセンターもその一環と位置づけていて、この場所自体がツールでもあるんです。
最初はもちろん相手にされないところから始まりましたから、自分から商店街のお店に挨拶回りからですよ。そういう基本的なところから。これが完全な画廊事業だったら、まちとの関係性なんて考えなくてもいいと思うんですけど、やっぱりそれはやろうとは思わなかったんで。
———スペースの名前からは、少しパブリックな印象を受けますよね。
パブリックな名前にする方が地域の方にもフィットするかなと思って。「横須賀 アート」とGoogle検索をしたら、何と現在(2024年2月頃)、私のヨコスカアートセンターが横須賀美術館よりも上位に検索結果として出てきます。ちょっとやってやったかな(笑)、と思いますけど、ではアートスペースとしての実績をこの場所で残せているかというと、全く残せていないと思っています。集客もそうですし、何かしら影響力を与えられたかという実感はまだまだないです。
———画一化したイメージで物や人を見るのはとても簡単です。一方で、個の実情は多様で、真剣に向き合わないとなかなか見えてこない。越中さんの制作は実直で真摯だと思いました。最後に、今後発表される予定の作品について教えてください。
〈間隔にあるパラダイム〉という、剥製を使ったシリーズが最新作で。祖父の家を解体したときに剥製が出てきて、これどうしようと思ったところから始まりました。そして剥製について調べると、けっこう無償や少額などで引き取り手を探している方が多くいることを知りました。
不用品を譲るウェブサービスなどを使って、全国の剥製を集めながら話を聞いていると、傷んでいる剥製は燃えるゴミに出せるけれど、傷んでいないものはどうも捨てられないから誰かにもらって欲しいという人が多い。それが今、この時代の剥製のあり方なんだと思いました。剥製をなぜ捨てられないのかというと、貴重だったり、元々生きていたもので、またそこに生命があるんじゃないか的なことだと思うんですね、それは八百万の神やアニミズムに近い感覚かなと思いました。だから今の時代、剥製はもう、燃えるゴミか八百万の神・アニミズムかの間際の存在で、燃えるゴミか神かって……これから、どうなるんだろうと思って制作しています。
壁に向かって剥製を置き、プロジェクターで海の写真を投影すると、海を見ているという1つの方向性が生まれて、剥製が生きているような感じが生まれると思います。次にプロジェクターをオフにすると、ただ壁を向いている剥製という感じです。この2つのイメージを並べて、「海を見ている」から「海が消えてしまった」という時間と心情を呼び起こし、この作品を見た人の中に勝手に剥製のドラマをつくり上げてもらいたいと思いました。実際には剥製の物撮りのはずが、「これ生きているんじゃないか」と、見ている人の中でありもしない生命を生み出した瞬間を体験して欲しいと、そのようなことができることを実感してほしいと思って本シリーズは制作しています。
今はこのシリーズの展覧会を準備中というのと、ヨコスカアートセンターの方も同時並行で、ただこちらは年間3回以上の展覧会はちょっと無理で……誰か一緒にやってみたいなという方や他のプロジェクトや団体との連携などを待っていたり、模索をしているところでもあります。
取材・文 辻 諒平
2024.03.13 オンライン通話にてインタビュー
越中正人(こしなか・まさひと)
これまで「集合(集団)」と「個(個人)」の関係性に着目し、偶然または必然によって集まった「個」の集合の中においての存在意義や相互作用について、人、花、火、星など、さまざまな素材を用いた写真と映像を制作してきました。 2007年に発表したシリーズ「echoes」は「UBS Young Art Award」を受賞し、以降は越後妻有アートトリエンナーレ(新潟)、WROメディアアートビエンナーレ(ポーランド)などの国際展に参加するなど活躍の場を広げています。
近年、「個」の一つの事象に対する視点や認識が、近年の飛躍的な情報量の増加によって多視点と多様性を持つ筈にも関わらず、メディアによって作られた一つの捉え方や判断が、一件一件の事実とは無関係な画一的な認識へと定着している事柄について問題視しています。集団心理において根拠が曖昧であるのにもかかわらず、事実とは無関係に思考や言葉、そして行動までもが同一方向へ加速度を増して一人歩きしていきます。
https://www.masahitokoshinaka.com/
展覧会情報
「越中正人個展」
会期:2024年5月16日(木)~5月28日(火)
会場: Quadrivium Ostium
住所:神奈川県鎌倉市浄明寺5丁目4番32号
https://quadriviumostium.com/
ライター|辻 諒平(つじ・りょうへい)
アネモメトリ編集員・ライター。美術展の広報物や図録の編集・デザインも行う。主な仕事に「公開制作66 高山陽介」(府中市美術館)、写真集『江成常夫コレクションVol.6 原爆 ヒロシマ・ナガサキ』(相模原市民ギャラリー)、「コスモ・カオス–混沌と秩序 現代ブラジル写真の新たな展開」(女子美アートミュージアム)など。