(2023.03.12公開)
宮崎県日向(ひゅうが)市、日向市駅にある「まちの駅とみたか物産館」の砂原勇紀さんは、店頭で地域産品のマネジメントをしながら、デザインやイラストレーションのスキルを活かして商品の新しい見え方のプロデュースも行っている。京都造形芸術大学の環境デザイン学科で地域デザインを専攻後、ライフステージの変化に合わせて三重、兵庫、宮崎と拠点を変えてきた。時に伊勢神宮の門前町の絵地図を描き、パスタ工房の責任者としてイタリアへと飛び、獅子頭を被り神社で舞う。これまでの活動は多岐に渡るが、人の縁と手を取りながら、その全てがひとつの道になっている。砂原さんにこれまでのことと、今心に描く理想の地域デザインの在り方について伺った。
———砂原さんが勤められている「まちの駅とみたか物産館」について教えていただけますか。
2022年4月からこの物産館で仕事をするご縁をいただきました。館長が定年になるということで、後任者として僕に声がかかったんです。
まちの駅とみたか物産館があるJR日向市駅は2006年に駅舎の高架事業がありまして、立体的な駅舎に生まれ変わりました。旧駅舎名がとみたか駅というんですけど、その名前を踏襲するかたちで、まちの賑わいをつくる場所が必要だということで、日向市の地域産品を取り扱う店舗が駅舎の一角に設けられたのがここの始まりです。遠方から日向市に来る時の観光の入り口にあたるので、旅行者や帰省者の方に多くお立ち寄りいただいています。駅舎完成から10年経過したタイミングで物産エリアを拡張し、日向入郷圏域、県北の高千穂など、日向広域物産を取り入れながら今に至っています。
日々の仕事としては、生産者の方々とコミュニケーションを取りながら売り場をマネジメントしています。毎日通ってこられるお菓子屋さんがいたり、地域の事業者さんたちとは距離感が近くて家族のような感じです。
———砂原さんが思う日向市の魅力を教えてください。
その地域が持つ固有の価値のことを、僕は絶対的な価値と呼んでいるんですけど、日向市はそういった絶対的な価値が凝縮しているところが魅力だと思います。日向市駅を中心とする半径3キロに人口60,000人の約8割が集中しているので、絶対的価値を持った人たちが相互作用しながら日向独特の文化が育まれて、他の市町村では真似出来ないような土地柄になっているんですよ。
例えば、三重県の伊勢神宮のモデルと言われている海岸線沿いに建つ大御(おおみ)神社。ここは全国にある伊勢と名前のつく地名の発祥の場所だと言われています。国歌に登場するさざれ石でも有名ですね、日本一大きなさざれ石群があります。日向の海は水温が年中高いのでサーフィンが年中楽しめて、世界大会が開かれます。日豊(にっぽう)海岸国定公園などのジオサイトもありますし、大型クルーズ船が泊まれる漁港があり、沿岸マグロ延縄(はえなわ)漁業の日本一の水揚げを誇り、杉丸太生産の日本一は宮崎県なんですけど、その4割を日向圏域が占めています。
学生時代に、住む環境から人は影響を受けると学んだものですから、こういったハイレベルな環境で育っている日向市民はすごく羨ましいんですよね。
———地域産品を店頭に展開するだけではなく、商品の見え方をプロデュースされることも多いですよね。例えば芋焼酎「日向岬セレクト」ではパッケージのイラストやデザインを手がけられています。
日向市の唯一の焼酎蔵であるあくがれ蒸留所さんからオリジナル商品をつくりたいという相談がきたんです。当初の先方のラフは焼酎に日向岬の写真を貼り付けているものだったんですけど、僕は「これをうちで販売するのは難しいですわ」とはっきり言いました。理由は簡単で、焼酎に写真ラベルを貼っただけのものはリアル店舗で扱う意味がないと思ったんですね。やはり商品を通じてお客さんとのコミュニケーション、会話が促進されるものじゃないとネットで売ればいいとなってしまうので、僕らが店舗で接客をする意味がない。ネット空間だけでは得られないものをここに足を運んでくれるお客さんは求めてるんですね。「この商品美味しいよ」とか「この石鹸が肌に効くみたいよ」といった普通の会話です。単に味比べが出来る焼酎だとか、ラベルに名所の写真が貼られているというだけでは購入する人は微々たるものです。
お客さんにヒアリングしてみると、日向岬の名所を巡るのは縁起にあやかっているとわかったので、馬ヶ背なら「うまくいく」、細島灯台なら「道を照らす」といったように、日向岬の名所に因んだ願掛けをテーマにしたパッケージを逆提案しまして、それが受け入れてもらえたんですね。
周りのスタッフからは、ことあるごとに自分の提案をぼやいとるみたいに言われていますけど(笑)、自分たちが売りたい商品、説明しやすい商品はどんなものかを生産者に積極的に意見することは、店を預かる商売人としてはむしろ当然のことだと思っています。
———生産者とのコミュニケーションで大事にしていることはなんでしょうか。
この商品を世の中に広めたい、これが役に立っているという誇りや自負を持って、熱量を持ってコミュニケーションを取ることをすごく大切にしています。
あとは商品以外の話、日常会話も大事なんですね。今日は朝早いですね、寒いですね、体調大丈夫ですか。仕事とは関係が無い話を重ねながら信頼関係をつくっていく。じゃないとハレーションが起きてしまうので。
生産者がつくりあげたものをこちらで変更する時には、必ずユーモアを交えるようにしているんです。何かが引っ掛かるとか、笑いが生まれるように、半分冗談がましくなるようにイラストやデザインで表現しているんですね。そうすると生産者も喜んでくれるんですよね。やっぱり「分かりやすさ+ユーモア」かなと。これはたどり着いた僕の中の結論なんです。
商品の見た目を変えると生産者の考え方も変わってくるというのは実感がありまして。やっぱり前向きになってくるというか。売り場に通ってくれるようになったり、「あんたが変えたからよう商品が出るわ」と言ってくれたり。芸術にはそういう力が備わっているんだなって、いろんな社会実装をしてみて確信するようになりました。芸術やデザインの知見で物事の捉え方を変えた結果、人の心が変わった時が一番「よし、やったぜ」と思いますよね。
ただ、変更してから実際売上が変わっていくかは冷徹な目で見て、変わらなければそのたびに繰り返し変えていきます。
———砂原さんが間に入ることは、消費者に対するアクションであると同時に、生産者にも働きかけているんですね。
そうですね。いくら僕のような芸大を出た人間がパッケージやポップにデザイン処理を施そうが、結局生産者がそれを生業にして実践するかどうかなんですね。だから生産者にもそういう気持ちがないと手伝う意味はないんですよ。逆に生産者の商品に対する熱量が高ければ高いほど、僕も貢献しようという勇気が湧いてきます。名前も勇紀なんで。
———京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)では環境デザイン学科で学ばれましたが、ご自身を形作った印象的な出来事や授業はありましたか。
京都五山の送り火を見た時にですね、「この大きな火の字は誰かが言い出しっぺをせんと出来ないな」と思ったんですよね。地域デザインというと、地域住民の方と合意形成しながら行うと一般的に考えられがちですけれども、これは違うと。真逆だと。合意形成ばかり気にしていると山に火で文字を書くなんてアイデアは浮かばないんじゃないかと(笑)。「とらわれない心で理想を描く」という感じですね。
島根県の郷土芸能、石見(いわみ)神楽を軸としたまちおこしプロジェクトには4年間参加しました。現地の神楽社中・温泉津(ゆのつ)舞子連中の方々にご指導いただきながら、『大蛇(おろち)』という演目のヤマタノオロチ役で舞をしていました。オロチ衣装は日本一強い和紙と言われる石州(せきしゅう)和紙製で、アコーディオンのように伸び縮みする形状で、これを最初につくり上げた人はすごいなと。これも誰かが言い出しっぺにならないと出来ないんじゃないかと思って。
地域デザインをする上で思考上の制約って実はないんじゃないかなと。とらわれない心で理想を描いて、実現するための第一歩をとりあえず歩むこと、それが地域デザインの本質かなと思ったんです。
師事した前田博先生はお菓子好きでして、授業の休憩時間は必ず京都の和菓子屋さんのお菓子を学生が当番制で持ち寄って食べるという伝統だったんですけど、前田先生が言うには、地域デザインは日本の和菓子屋がモデルになると。和菓子は素材は同じでも日本の四季変化、その土地の風習に応じて見た目が変わるんです。つまり地域の風習を同じ素材を使用し、デザイン化して表現しているので、和菓子には地域デザインの要素が凝縮されているんですね。
———まさにその話の延長として、卒業後、三重県の銘菓を手掛ける赤福グループの伊勢福にて、伊勢神宮の門前町であるおかげ横丁の運営管理に携わりますね。
おかげ横丁は菓子屋である赤福餅が一社単独でつくった門前町でして。自分たちの仕事は自分たちでつくって、その利益を自分たちのまちに還元しているというのがおかげ横丁の強みで。
伊勢福の社長室に勤務しながら、まちにある50店舗の専門店をマネジメントする仕事をしていました。料理人、木綿職人、団子屋、和太鼓奏者、郷土料理屋、豆腐屋、落語家など、あらゆる専門店、日本の四季風習を活用している商売人が集うまちです。赤福餅の語源は、赤心慶福(せきしんけいふく)。赤子の心で、人の幸せを願う慶福という意味。ここでは、その思想が素材です。あらゆる職人がこの思想を用いて、異なる専門職のデザインで表現することで地域をデザイン化しているんですね。そういった横丁の社長との会議にも毎日駆り出されていました。3年間で600回くらい議事録の作成と議事録内容の進捗管理業務をしまして。専門職の方々の言葉を文章にする作業って、実は自分自身が内容を理解していないとそもそも出来ないんです。ハードな日々でしたが、今の僕のベースになっていますね。
赤福本店の前の、おかげ横丁の入り口にある看板の絵地図は僕が描きました。時間さえあれば会社の机で絵を描いていましたね。全て手描きで、完成までに3ヵ月かかりました。是非芸大生がおかげ横丁に行った際には、卒業生が社会実装をした例だと母校に声を大にして言いたいです(笑)。
———その後、ライフステージの変化に合わせて兵庫県姫路市の小川農園でのお仕事を始められましたね。
きっかけは僕が結婚をしたことです。妻の実家がお寺でして、年末年始にお寺の奉仕に行くかおかげ横丁で働くか、究極の選択になりまして。おかげ横丁の一番の稼ぎ時は年末年始なので、ライフプランと仕事が合わなかったんですね。まずは妻が大事だということで、三重県を離れることになりました。
環境デザイン学科の先輩、小川陽平さんの生業である小川農園が、加工と販売まで事業を広げる6次産業化に挑戦すると聞きまして、「話乗ろうか」と合流しました。まずは農作業から。草刈りは1ヵ月ぶっ通しですし、日が昇ってから沈むまで、まぁ徹底的に農家はやりました。
その後、自社で育てたお米を使った生パスタの工房を立ち上げるということで、その製造責任者としてイタリアにも飛びましたし、卸し事業の営業責任者もしましたから東京のレストランに営業に行ったりとですね、小川農園での日々は1次産業から3次産業までを一貫して突き詰めるいい経験でしたね。
———そして、2020年に宮崎県の日向市に移住をされますね。財光寺農業小学校の運営や、宇納間の炭家(うなまのすみか)の活動、大御神社の天翔獅子(てんしょうじし)のメンバーになったりと、フットワーク軽く様々な活動にコミットされています。
今度は弟が結婚して滋賀県の信楽で家を建てたことがきっかけなんです。兄弟のどちらかはいずれ親の近くに戻るとは昔から思っていて、弟が帰るのかなと思っていたくらいなんですけど、弟が家を建ててしまったものだから僕が宮崎に帰らないといけなくなりまして。親族周りにもお前戻ってくるんやろうと固められて(笑)。当時の僕としては小川農園を10年はやろうと思っていたんですけど、予定が5年早くなったんですね。
日向には祖父母の家がありまして、5歳のころから夏休みごとに遊びに来ているんですね。幼少からの記憶が無ければ日向に来ることも無かったと思います。
日向に来てからは郷土芸能とはすっかり疎遠になりまして、もう二度と芸能文化に関わることはないのかなと思ってたんですけど、今や大御神社の天翔獅子のメンバーの一人なんですよ。ある日突然、新名宮司から呼ばれまして、獅子舞のビデオを見せられながら「やってくれるか」と(笑)。
獅子舞を引き受けた後に知ったことでひとつ衝撃的だったのは、獅子頭をつくっている方が、学生時代に僕が石見神楽を教わっていた小林泰三さんという先輩だったことです。その時はこれは神様の引き合わせてくれた縁かなと、目に見えない力はあるのかなと思いましたね。
獅子舞の一件で、自分がわからない世界にこそ視野が広がるきっかけがあるんだと思いまして。まずはわからんけどとりあえずやってみよう、第一歩歩んでみようと、行動に移してみることが素直に出来るようになりましたね。まずは僕が言い出しっぺになって「この指とまれ」で賛同者が集まってくれるような、小学校の仲良し同士のようなワクワクするノリです。
———砂原さんの地域デザインは「この指とまれ」からはじまるんですね。
世の中で具現化しているあらゆるモノって、実は誰かが言い出しっぺで始めたことですよね。この指とまれ。から始める方が自分自身の気持ちに偽りがないですし、楽しくてユーモアのある方が継続も出来るんですよね。ポジティブな人間関係は広まるし、楽しいことを積み重ねながらやる方が自分のやりがいも見出せますし、結果、その延長線上で地域課題が解決するようにつながっていくんじゃないかと思うんです。
どこまで行っても人が関わらない限り物って売れないので、「人間通」になって、その上で自分自身の持つ芸術やデザインの知見があれば、どこに行っても地域課題は解決出来ると思います。その気持ちが僕の原動力です。
———学生時代の経験から、様々な土地でのお仕事まで、砂原さんの多岐にわたる活動の全てはひとつの道になっているのかなと感じました。日向市での未来を今どのように描いていますか。
大御神社は伊勢神宮のモデルで、伊勢と名のつく場所の発祥の地なので、僕がいたおかげ横丁とも接点があるんです。これも何かの縁ですよね。
すごい楽しいなぁと思う日向市の未来は、例えば、大御神社の前におかげ横丁のような門前町があればきっと日向の人たちも喜んでくれると思います。つまり、日向に訪れた方をもてなす場所の創造ですね。実現すれば僕の今まで歩んできた全ての道が活かせるんじゃないかな、到達点なんじゃないかなと思うんですよね。こんなんあったら楽しいよねという、とらわれない心で地域の理想の姿を描くことは想像するだけでもワクワクして面白いです。物産館での事業者さんとのご縁も活かせますし。今はそんな心でいます。
取材・文 辻 諒平
2023.02.12 オンライン通話にてインタビュー
砂原 勇紀(すなはら・ゆうき)
1985年生まれ、大阪府八尾市出身。夫婦ともに芸大卒。3児の父。
京都造形芸術大学にて4年間、地域デザインを学ぶ。卒業後、2007年、三重県の老舗菓子屋:赤福餅のグループ会社濱田創業入社、財務経理担当を経て、同グループ会社である伊勢神宮門前おかげ横丁運営会社:伊勢福に転籍。赤福餅10代目浜田益嗣、橋川史宏(松下政経塾1期生)のもと、社長室に配属。新規店舗立ち上げに関わる業務(五十鈴川野遊びどころ、浪曲茶屋、伊勢醤油本舗など)、議事録作成並びに進捗管理業務、横丁絵地図作成のデザイン業務、味匠館(日本全国のこだわり食品店)仕入れ担当者として日本の風土に根差した食の探求並びに文化背景がある食品のバイヤー、食品に関する商品開発部など計7年間経験。神宮古来からの農業神事や、自然に寄り添いながら農産物を作る良心的な生産者との出会いをきっかけに、日本の自然や農業の大切さに気づく。
同大学同級生との結婚を機に、兵庫県姫路市へ移住し、2014年小川農園株式会社へ転職。米づくりの傍ら、自社栽培の米を生パスタに加工する6次産業化事業推進のための責任者を兼務。本場の生パスタ作りを学びにイタリアで修行。米が本来持つ可能性を研究しながら、イタリア人が納得する生パスタを日々追求し、具体化に成功。営業責任者として全国の百貨店での催事販売、イタリア料理シェフ奥田政行氏のオリジナル生パスタ製造開発など、全国のシェフからの要望によるオリジナルパスタの受注製造販売業務や、料理人への直接取引交渉など、1次産業から3次産業までの分野を多岐にこなす。2018年、ふるさと宍粟PR館きてーな宍粟の運営マネージャーに就任。宍粟市の生産者発掘、地域資源調査、宍粟産品を活用したPRワークショップ実施、宍粟催事の冊子イラスト作成、デザイン業務に携わる。
自身の親族環境変化を機に、祖父母所縁の宮崎県日向市へ2020年に移住。日向市地域雇用創造協議会にて地域資源を活用した商品開発業務を行う。日豊海岸国定公園内:平岩探勝遊歩道散策ルート開拓、日向岬自転車観光ルートの現地調査、サイクルマップの作成。日向杉を活用した胸飾り開発業務など。
2021年、日向市農林水産部ふるさと物産振興課の任期付職員に着任。6次産業化支援窓口、日向市発祥の柑橘へべすの物産振興、同市東郷地域の特産品カモミールの販路拡充業務など、農産物振興に行政的立場から携わる。
2022年、日向市観光協会:地産プロモーション課主任主事に着任。まちの駅とみたか物産館のマネジメントを業務にし、現在に至る。
主な役割・趣味
日向のお伊勢さま大御神社天翔獅子保存会メンバー
ひなた自転車協会 認定案内ライダー
財光寺農業小学校 事務局長
瓜生山同窓会 九州支部 副支部長
伊賀土鈴方隆窯3代目継承者、全国郷土玩具収集家
日本三大備長炭:日向備長炭製炭者(見習い)
mail :sunahara03@gmail.com
ライター|辻 諒平(つじ・りょうへい)
アネモメトリ編集員。美術展の広報物や図録の編集・デザインも行う。主な仕事に「公開制作66 高山陽介」(府中市美術館)、写真集『江成常夫コレクションVol.6 原爆 ヒロシマ・ナガサキ』(相模原市民ギャラリー)、「コスモ・カオス–混沌と秩序 現代ブラジル写真の新たな展開」(女子美アートミュージアム)など。