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アネモメトリ -風の手帖-

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#106

即身成仏の境地へ。密教を舞い踊る
― 滝山隆心

(2021.09.12公開)

僧侶×ダンサーという異色な肩書を併せ持つ滝山隆心さん。空海が開いた高野山で12年にも及ぶ修行を終え、現在は大阪にある真言宗のお寺で勤めをする傍ら、高野山に古くより伝わる宗教舞踊、時に前衛ダンスを駆使して、密教の魅力を伝える活動を行っている。仏の道とダンスを究めることは即身成仏(そくしんじょうぶつ)であるという滝山さん。その言葉の真意はいかに。

シン画像①-

———ダンスに打ち込むようになった経緯を聞かせてください。

まずわたし自身、僧侶の家系の生まれではないんです。出身も東京で。なので密教もダンスもご縁で繋がったものです。ダンスについては、東京学芸大学在学中にストリートダンスを始めたのがきっかけです。その後ダンスを続けていくうちに、コンテンポラリーなど別の領域のダンスを知るようになって。踊りをもっと学びたいというシンプルな思いから、大学卒業を機に、京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)の舞台芸術コースに3年次編入で入り直しました。京造では即興ダンス、コンテンポラリーバレエなどの前衛的なものから、能や狂言などの伝統的な舞踊まで身をもって知ることができました。特にコンテンポラリーダンスの第一線で活躍されている山田せつ子先生から「もう少し考えてダンスをやりなさい」とお叱りを受けたのは自分にとって鮮烈な思い出です。見透かされてたんですよね。ストリートダンスに傾倒していた当時の自分にとって、ダンスとはカッコよく踊りきるもので、技術的な要素だけに頼ったダンスをしていたので。この山田先生のご指導がきっかけで、自分はダンスで一体何を表現したいのか、自分とは何者であるかを考えるようになりました。その答えを求めて、哲学書を読み漁ったりもして。数ある哲学の中で目を引いたのは、ソクラテスの“無知の知”と称される「知らないことを自覚する」という考え方でした。わたしが学生だった頃は、中東における度重なる戦争や企業買収の駆け引きがクローズアップされた時で、双方が正義を主張し合う様子がニュースで流れていましたが、ソクラテスの考えは、誰の考えが一番正しいか、優れているかではなく、知らないことを自覚する謙虚な姿勢をもつことが知恵となるというものでした。また格差社会という概念が出てきたのもこの時期で、勝ち組や負け組といった言葉で人を切り捨てることに少なからず違和感があったのも、ソクラテスの哲学、更に言えば密教に惹かれた一つの所以かもしれません。

画像②

———そんな思索の最中に密教と出逢われたのですね。

これもなにかの縁なのか、大学で知り合った女性が高野山のお寺の娘さんで。その女性がのちにわたしの妻となるんですけど、彼女と知り合ったのがきっかけで密教の存在を知りました。まず密教についてですが、空海が開いた真言宗や最澄の天台宗に代表される仏教の教えの一つで、私が修行した真言宗に至っては世界遺産となった高野山を始め、京都の東寺など全国各地にお寺が建立されており、実は日本人に身近なものなんです。密教の核となる考え方は、全てのものを否定しないこと。曼陀羅の図像は宇宙を表しているのですが、人が見たり想像したりすることができない現象含んだ一切のもの、いわゆる森羅万象によってこの世は成立しているという思想に根差しています。何が正しい、優れているといった考えを超え、思考や計測が不可能なあらゆる現象の積み重ねで世界はできている。ソクラテスの哲学に共鳴する一面もあり、またここ数年、LGBTなど多様なアイデンティティを積極的に許容する流れがありますが、古くより密教には全てを許容する度量があったのです。ダンスに関していうと、密教では印を結んだ身体と、真言と呼ばれるお経を唱える心をもってして、仏と同じ境地に入っていくという即身成仏(この身そのままに仏となる)の教義があるのですが、わたしの考えるダンスのあるべき姿にすごく似ているんですね。己という人間は一体何を表現したいのか、その問いの答えが密教の教えにあると確信し、高野山にて密教の修行をさせていただくに至りました。

宗教舞踊を披露する滝山さん。宗教舞踊とは、御詠歌(ごえいか)と呼ばれる讃仏歌に合わせて舞う真言宗特有の舞踊

宗教舞踊を披露する滝山さん。宗教舞踊とは、御詠歌(ごえいか)と呼ばれる讃仏歌に合わせて舞う真言宗特有の舞踊

———仏教とダンスは同じ境地にあるのですか。

仏教用語に“抜苦与楽”と“自受法楽”という言葉があります。“抜苦与楽”は、苦を取り除き、安楽や喜びを人々に与えるという仏教の基本的な役目を表す言葉で、ダンスも同じように他者を楽しませて気分をプラスに変える作用があるかと思います。一方の“自受法楽”というのは、仏自らが悟りを深く味わい、法悦に浸ることを指す言葉です。ダンスとはまさしく自受法楽で、自分が楽しいということを完成させる行為なんですね。それは一聞、ただの自己満足に聞こえるかもしれませんが、たとえ自分の踊りにいくら満足しようとも、他者が不快に感じていれば、踊り手はダンスを続けることはできません。そのようなダンスは心から楽しめないからです。自受法楽を突き詰めていくと、慈悲、全ての和、円満を求めるようになるんです。つまり本当に自分が楽しい状態(自受法楽)とは、他者を楽しませることへ結局はがってゆくのです。僧侶もダンサーも自己満足で悦に入ってはならず、法悦に浸らなければなりません。
また、ダンスとお経を上げる心境にも共通した点があります。ダンスをする際、意識は外に向けるのではなく身体に集中させます。もちろん自分の立ち位置や音楽に耳を傾けたりすることは最低限必要ですが、身体の伸ばし加減であったり、関節の曲がり具合や鼓動の響きなども含め、その瞬間、瞬間に必要な身体感覚に意識を絞っていきます。真言を唱える際の一連の作法でも、仏になにか思いを馳せるのではなく、心を鎮めてその時すべき必要な動作に意識を集中させて行なっているだけなんです。特に真言宗ではお経にメロディーをのせて唱える“声明”というパートがあって、音程の高低や声の揺らし方などかなり厳密に決められており、それは言わば型のあるダンスに近いです。入り込む余地がない。でも、余地がないことがむしろ心地がいいんです。一切の後悔や迷いなどを排し、真言(仏の道)を唱えることは、同時に自分の真言を聞く(仏から言葉をいただく)相互の状態になれるんです。

画像④のコピー

———2015年に上演された「法楽」では密教の世界観をダンスで表現されました。

「法楽」は高野山開創1200年記念大法会の一環で上演したもので、ダンサーとして、僧侶として培ったものを融合させてみたいと思い、高野山の僧侶らによる真言宗の法要「中曲理趣三昧」に合わせ、男女2人ずつのダンサーらがその世界観をダンスで表現する試みをしました。この中で唱えられる「理趣経」は葬祭でも唱える密教の主要なお経で、全ての存在、生命を生かし、喜ぶことを説いたまさに「法楽」(奏楽で仏を喜ばせること)にふさわしいお経なのですが、元来、修業をしていない者は唱えてはいけないとされます。なぜ禁じているのか、それは密教がなぜ密であるのかと深く関わってきますが、前述の通り、密教では森羅万象によりこの世は成り立っているという思想が核にあります。これはある意味で全ての現象を肯定することにもなるんですね。たとえば仏教ではもちろん殺生を禁じていますが、我々は歩くだけでその空間にいる小さな虫を殺している紛れもない事実(現象)があるわけです。詳しくは話せないのですが、「理趣経」には殺生に対してある種肯定的に捉えた側面を持っています。また男女の交わりについても記述があり、「恍惚の境地は、本質として清浄なり」と説いています。これも同じで、性への欲心がなければ生命を生き継ぐことができないですよね。でも欲に溺れるのを決して良しとしているわけではないのです。このように記述の多くは、間違った解釈や誤解を生む危険性をはらんでいて、仏道を心得た者でないとお経の真意を知り得ないために密とされてきたのです。

シン画像⑤

シン画像⑥

「法楽」のパフォーマンスの様子。曼陀羅の世界観を模した舞台上で、ダンサー達が生命の輝きを表現した

「法楽」のパフォーマンスの様子。曼陀羅の世界観を模した舞台上で、ダンサー達が生命の輝きを表現した

ただ、わたしとしては、このお経が現実世界の営みに目を逸らさず表していることに、ダンスで表現する魅力を感じたんです。ダンスでは人と人、人と物との関係を直接的に見いだすことができます。たとえばダンサー同士が手を繋いだり、背中が触れ合うだけでも、両者に関係性を見いだせますし、どちらか一方が繋いだ手を引っ張ることで、引力を表現できたりもします。実際のパフォーマンスでは、蹲ったダンサーを他のダンサーが包み込み、再起を促す動作によって生を受け継ぐことを表現したり、ダンサーが縦列に並び、前のダンサーが即興で繰り広げた踊りを後ろのダンサーが瞬時に真似ることで、同調や繋がりを表現したりと、言葉では言い表しにくい現象をダンスで体現させました。さらにダンサーには、それぞれソロパートを自由に演じてもらいました。メンバー達が踊り手として、はたまた一人の人間として培ってきた経験を存分に発揮してもらいたかったのがその理由です。仏教にも各々が最高の仕事を発揮し合えば、世の中が良い方向に転じていくという教えがあるので。彼ら彼女らの自由なダンスによって生命の輝きをより体現できたと思っています。

———高野山での修行を経て、今後はどのような展望を持たれていますか。

ダンスで密教を広めることが、わたしの一つの役目です。ここ数年継続して映像制作会社のAJAVAAと協同で海外向けのPR動画を作成しております。高野山を始め、京都の神護寺や東寺、仁和寺など密教に縁のある風情豊かなお寺の境内で、洋楽の人気ポップスに合わせて、印などの密教の要素を取り入れた少しアッパーなダンスを繰り広げております。昨年(2020年)には海外でもコレクションを発表するアパレルブランド・KOZABUROにお声掛けいただき、ファッションショーの冒頭にパフォーマンスをさせてもらったりとご縁が繋がり、皆さんに密教を知ってもらうきっかけになれば嬉しい限りです。

自身の展望としては、密教で得た全てをいつかダンスで完璧に体現させたい。「法楽」でのパフォーマンスは暫定的な修業の成果であって、まだまだ至らない点が無数にあります。日々の修行で密教の教えをより深く追求していき、その中で得られたものをダンスに落とし込んでいく。今のわたしにとって密教で悟りを求めることとダンスを完成させていくことは重なり合い、即身成仏への道と繋がっているんです。まだまだ道半ばですが、仏の境地に向かって日々精進して参りたいです。

取材・文 清水直樹
2021.07.02 オンライン通話にてインタビュー

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滝山隆心(たきやま・りゅうしん

高野山真言宗、常喜院住職(奈良県高取町)。高野山宗教舞踊、師範。1980年生まれ。東京都出身。東京学芸大学初等教育社会専修、及び京都造形芸術大学舞台芸術学科卒業。housebe-bopダンスによる音楽との即興セッションをきっかけに、フリースタイルな身体表現による即興ダンスに深い興味を持つ。ダンスと密教に親和性を感じ得度(出家)する。和歌山県高野山にてコンテンポラリーダンスの公演や、寺院とダンスを掛け合わせた動画などを制作。

[コンテンポラリーダンス作品]
2004「月影草子」京都法然院
2005body&soul」京都造形芸術大学
2011「荘厳の宴」淡路潮音寺/「観心行舞」高野山恵光院/「阿蓮月の夕べ」高野山恵光院
2013「人型反応性可動式瞑想体」高野山恵光院
2014「聖地礼拝」阪神百貨店・和歌山Onomachiα
2015「法楽」高野山大学黎明館

[受賞]
2006「ダンスチャレンジ」(大阪)ストリートダンスコンテスト優勝(チームATMOS-phere


清水直樹(しみず・なおき)
美術大学の写真コースを卒業し、求人広告の制作進行や大学事務に従事。
現在はフリーランスライターとしてウェブ記事や脚本などを執筆。