アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

風を知るひと 自分の仕事は自分でつくる。日本全国に見る情熱ある開拓者を探して。

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#12

まちの盛衰に自分のルーツを探る
― 桑野友恵

(2013.11.05公開)

「宝塚」と聞けば、多くの人は宝塚歌劇や高級住宅地をイメージするだろう。しかし歌劇誕生以前、明治から昭和にかけて「宝塚温泉」として栄えていたことをご存知だろうか。かつてこの温泉街で置屋業を営んでいた祖母、芸妓をしていた母親を持つ桑野友恵さんは、大学の卒業研究として宝塚温泉の盛衰を辿ることにより、家族や自分のルーツを再認識しようと試みた。生まれてからずっと住み続けているこのまちに、どのような思いを持っているのだろうか。

——兵庫県宝塚市に生まれて、どのような幼少期を過ごされていたのですか。

実は生まれてこのかた他のまちに引っ越したことがないんです。幼少期は祖母が置屋を営んでいて、そこに住んでいました。もちろん芸妓さんも一緒に暮らしていたので、覚えているだけでも「お姉ちゃん」と呼んでいた大人が2、3人いましたね。私はふたり姉妹なのですが、妹は私のことを「友恵姉ちゃん」と呼んでいました。妹にとって血の繋がった「お姉ちゃん」はひとりだけなのに(笑)。
夕方になったら「お姉ちゃん」たちが仕度を始めるんです。夜も更けると、近くの旅館から三味線の音が聴こえてくる。女の人の騒ぐ声と男の人の笑う声。そして家に帰ってくるときにはみんな酔っぱらっている。私にとって、物心ついた頃の思い浮かぶ風景といえばそういうものです。

01温泉街

桑野さんの幼少期、武庫川岸には日本家屋の旅館が多く残っていた

——桑野さんご自身も「大きくなったら芸妓になる」と当たり前のように思っていたそうですね。

祖母が、孫娘ふたりは短大出の芸妓にすると意気込んでいたんですよ(笑)。だから6歳から踊りも始めていました。ただ、小学生の頃からうちの家は他人から羨ましがられる環境ではないと何となく感じていたんです。それにある日、友達のお母さんが「あんな家の子だから」と言っていたのを耳にしたんですね。その一言が、大人になるまでずっと心に引っかかっていました。
そんなこともあって、家が置屋業だということを人に言わなかったんです。母親が芸妓だということも。なぜかわからないけれど、言えなかった。働くようになり結婚を考える年齢になっても、どこかで恥じている気持ちがあったんだと思います。だけど「情緒」という言葉も知らなかった頃から、このまちがすごく好きだというのは変わりありませんでした。

——その後、社会人として働きながら京都造形芸術大学通信教育部歴史遺産コースに入学されますね。そこで、宝塚温泉を研究することになった経緯を教えてください。

昔からお稽古事や学校が好きだったので、最初はその延長線として軽い気持ちで入学したんです。広く歴史を勉強したくて。でも、まさか「宝塚温泉」を研究することになるとは思ってもみなかった。「宝塚に温泉が涌いていた」というのは、さすがに生まれ育ったまちなので知っていましたが、それがいつからあるのか、どのように栄え、忘れられていくことになったのか、全然知りませんでした。だけど卒業論文の時期にさしかかったとき、宝塚温泉を研究テーマにしてみたら?とアドバイスをいただいたんです。最初は、文献もほとんど残っていなさそうだったので、手をつけられないだろうと躊躇していたのですが、先生から「資料が残っていないからこそ、あなた自身が研究するんだよ」と言ってもらって、ハッとしました。平日は働いていたし、体力的にもきつかったのですが、意を決してやってみようと。実際、調べるにつれて、今まで自分の中にあったもやもやとした部分が少しずつ埋められてゆくような気持ちになったんです。

02宝塚温泉03宝塚本温泉場面

戦前の宝塚「旧」温泉街

——「もやもやとした部分」とは、どのようなところに感じられたのですか。

子供の頃の思い出なんて気にもせず、いっそこのまま「宝塚温泉」という歴史もなくなっていいのかもしれない、と思っていたんですね。寂しいけど、誰にも語らずに、心にしまっておけばいいじゃないかと。でも「宝塚温泉が栄えていた過去」をなくしてしまうということは、祖母や母親の生きてきた人生を否定してしまうことになる。何というか、ごっそりなくなる、という感覚だったんです。論文って書いてゆくうちに自然と形が見えてくるでしょう。そうすると「あ、私はこれを知りたかったんだ」という手応えを掴めるようになっていったんです。

04宝来橋昭和35年ごろ

昭和35年頃、武庫川右岸と左岸をつなぐ宝来橋に佇む芸妓たち。元芸妓の桑野さんの母親も写る

——宝塚の歴史を調べることは、すなわち桑野さん自身のルーツを辿って、その存在を肯定する、ということに繋がっているのですね。

そういうことだと思います。

——論文「宝塚温泉における花街の盛衰」を読むと、宝塚歌劇の起こった当初は、歌劇の少女たちが温泉街の芸妓さんや舞妓さんから衣装や化粧を教えてもらうなど、交流を持っていたみたいですね。でも時代が経つにつれ、まるで敵対するような関係になり、切り離されていったと。

それは、阪急沿線の開発者である小林一三氏の商法が根底にあったんだと思います。彼は「男」や「酒」がつきまとう温泉文化と決別して、華やかな夢の世界を前面に出す方向に転換したと言えます。温泉側も利権の問題があったりして、当初から手を取り合っていたわけではなかったのでしょう。
それに資料が残っていないので何とも言えないのですが、地域住民も温泉街はこのまま廃れていってもいいのかも、という諦念があったように思います。まちのみんなが路地の猫よりもおしゃれなペルシャ猫を好むという感覚に近いのかな。

05takarazukaeki

現在の阪急宝塚駅

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「温泉街」のサイン。矢印の先に木造建築の温泉旅館の姿は見えない

——また、昭和50年代「ベルばらブーム」のときに、宝塚市に移住した女性が増加した、という統計データをまとめておられますね。※ベルばら=『ベルサイユのばら』(池田理代子・集英社 / 1972〜73年『週刊マーガレット』にて連載)

こじつけかも知れないですけどね(笑)。でもあの時代に華々しい歌劇を観て、感動して、ここに住みたいと思った女性が少なからずいたというひとつの結果だと推測しています。宝塚には武庫川という大きな川が流れているのですが、市側もその(宝塚歌劇の)ブームに応えたのか、右岸(旧温泉街側)にマンションをたくさん建てることを許した。その際、景観規制を行わなかったことで、左岸(宝塚大劇場側)から見えるのは、かつて漂っていた情緒なんて感じられない風景になっているんです。個人的な好みとしては、少しくらい日本家屋の趣が残っていてもいいと思うのですが(笑)。

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武庫川右岸(旧温泉街)。現在は大小さまざまなマンションが建ち並ぶ

08迎宝橋

温泉街から宝塚大劇場への最短ルートだった迎寳橋。昭和24年頃台風で流されてから再建されていない

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迎寳橋跡。フェンスと蔦でひっそりと覆われている

——確かに宝塚駅周辺を歩いてきましたが、日本家屋をはじめ、宝塚温泉の名残や跡地を見つけにくい気がしています。それはなぜでしょうか。

右岸の温泉文化が宝塚歌劇の発展の陰になったことが大きな要因ですが、さらに衰退を加速させたのが、1995年の阪神淡路大震災でした。このあたりは半壊・全壊した家屋も多く、たくさんの住民が亡くなったんです。衰退後もひっそりと経営を続けていた木造旅館は廃業を選択してしまった。その旅館の経営者や、若かりし頃に芸妓をしていたおばあちゃんたちも、震災をきっかけに市が用意した施設に移住されたんですよね。

——震災が過去のできごとを洗い流してしまうきっかけになったということですね。

きっと震災の前までは、彼女たちは思い出のひとつとして写真や資料を残していたはずなんです。でも、家が壊れたのを機に、思い出の大半を処分してしまった。彼女たちにとっても「新しくて安全なところに住めるのならば」とけじめをつけたんだと思います。それに先祖代々守り継いだ土地ではなくて、自分ひとりの小さな思い出のまちだったわけですから。移住先もそんなに広くはないだろうから、着物だって履物だって、「もう置いていこう、捨ててしまおう」という気持ちになったんじゃないかな。

——自分たちの人生の終焉とともにその歴史も閉じる……ということでしょうか。

そうだと思います。私だって、宝塚研究を始めたのがあと15年でも早かったら、もっと違うことがわかっていたはずだ、と後悔することがあります。
花街の歴史に関わってきた人は、履物屋さんなど、私が昔から知っている人も多いんです。でも改めて聞きに行っても「もうわからんわ」と言う人ばかりだった。「昔は良かった」と懐かしむ人もほとんどいない。それに温泉街の人たちは、自分の旅館をどう経営してゆくかというところだけが念頭にあったのではないかな。宝塚というまちをどうにかしていこう、という発想までは至らなかった。

——それを踏まえた上で、今後「宝塚」というまちのイメージをどのように捉えてもらいたいですか。

温泉街にも人が生きていたことと、かつては宝塚歌劇との両輪立てでやってきたことを、市の歴史として認めてもらいたいですね。今このあたりに住んでいる人には、まずその歴史を知ってもらいたい。歩いていて立派な史跡が残っているわけでもないし、温泉の出所だってある大きなホテルの敷地内に隠れてしまっているから、伝えにくいところではあるのですが。
今でも知人に「宝塚です」と話すと「いいところに住んでいますね」と言われることが多いですが、正直複雑ですね(笑)。その人にとっての「いい」と私の「いい」は、ちょっと違うんだなと。

——桑野さんの思う「いい」を、どのような立場で伝えてゆこうとお考えですか。

例えばずっと隠してきた「うちが置屋だった」「母親が芸者だった」という、昔だとコンプレックスだと思っていたことが、今となっては逆にブランドになるんじゃないかと考えています。
それに、私の研究だけではなく、放っておいたらなくなってしまう文化はたくさんあるんですよね。私は市内のカルチャースクールでマナー講師をしているのですが、「冠婚葬祭のマナー」と聞けば、本やテレビで言っていることがすべて本当で、それが常識だと思われがちです。でも実はそんなことなく、土地土地によってお葬式も結婚式も、継承されてきた方法があるんです。兵庫県だけに絞っても阪神間と日本海側や、同じ城下町であっても姫路と篠山ではずいぶん違うだろうし。土地ごとの作法、というものをもっと勉強してご提案していければ、少しは役に立てるんじゃないかな(笑)。

——その土地で語り継がれてきた、相手が気持ちいいと思ってもらえる動き方、ということですね。

マナーというものは特に、最初にこうです、と教えられたことが正しくて、今までやってきたことは間違っていたんだ、と排除させられるような気持ちになりますよね。私自身、今までだったら、本を読んでそれを記憶することが「マナー」だったけれども、いろんなやり方があって、歴史や文化をひとつひとつ拾ってゆくことが大切なんだと気づきました。人をお見送りしたり、もてなしたり、祝福するということをもう少し大きな心で捉えていいのだなと。堅苦しく考えるのではなく、柔らかく解いてゆくことがお互いに気持ちよくなる方法なんだと思います。言葉に標準語(共通語)と方言があるみたいに、各地域の持っている文化や作法を残してゆきたいですね。

インタビュー、文 : 山脇益美
2013年8月26日 兵庫県宝塚市にて取材

10profile
桑野友恵(くわの・ともえ)
1971年兵庫県宝塚市生まれ。2007年京都造形芸術大学通信教育部歴史遺産コース卒業。現在は大学病院に秘書として勤務する傍ら、日本現代作法会にてマナー講師として和文化の歴史や作法を教える。京都造形芸術大学の卒業研究として執筆した「宝塚温泉における花街の盛衰」を神戸史学会『歴史と神戸』に寄稿している。

山脇益美(やまわき・ますみ)
1989年京都府南丹市生まれ。2012年京都造形芸術大学クリエイティブ・ライティングコース卒業。今までのおもな活動に京都芸術センター通信『明倫art』ダンスレビュー、京都国際舞台芸術祭「KYOTO EXPERIMENT」WEB特集ページ、詩集制作など。