(2013.08.05公開)
家の近くにある線路を眺めながら「知らないことを知りたい」「見たことのないまちに行ってみたい」と空想を膨らませていた少年は、岡山県、パナマ共和国、ウズベキスタン共和国で古代遺跡の発掘調査をする考古学の研究職に就いた。帰国後、現在は高知県の北部にある大豊町役場の職員として「おおとよ結プロジェクト」を立ち上げ、まちおこしに尽力する日々。一見まったく違う仕事に思える現在の仕事とこれまでの仕事には、どのような繋がりがあるのだろうか。
——幼少期は何に興味を持っていたのですか。
駅の近くに住んでいたこともあって、小さい頃から電車が好きでした。時刻表を見ながら電車が来る時刻を調べてみたり、この線路の向こうには何があるんだろうと想像してみたり。今でもひとりで考えごとをするのが好きなのですが、その原点はここにあるのかなあと思っています。
また、中学高校時代は歴史の授業が好きでした。もちろん戦国時代や江戸時代も好きだったのですが、それよりも古い時代、特に縄文時代や古墳時代に興味を持っていたんです。
——古い時代への興味というのは、どのあたりにあったのでしょうか。
例えば日本史で言うと、聖徳太子が登場する頃からはたくさんの史料(古文書や歴史書など)が残っているのですが、僕が興味を持ったのは、それらが残っていない時代だった。世の中に「考古学」という学問があることを知ると、まだ史料が見つかっていない、わからない時代のことを、どうにか自分でも探してみたいと考えるようになりました。実際に発掘作業に参加して、出てきた土器や木の道具類をジグソーパズルのように組み立てる。想像しながら調査を深めてゆくことで新しい歴史の見方が得られるかもしれない、ひょっとしたら歴史の教科書が変わるかもしれない……そんなことを思い描いていました。
——皇学館大学で考古学を専攻された後、岡山県古代吉備文化財センターで10年間勤められるのですね。
ちょうど僕が文化財の研究職として働き始めた頃は、山陽自動車道ができる直前だったんです。今までの耕地を造成し、新しく道路や橋を作るという目的が念頭にある上で発掘調査をしていました。記録に残すという作業ですね。年がら年中、土を掘って。出てきた物を丁寧に洗い、整理する。
——その後、考古学の研究員として2005年、パナマ・ビエホ財団考古学研究所に入られます。海外に渡ったきっかけは何ですか。
僕にとって地元である岡山県の歴史を調べるというのは、非常に大事なことではあったのですが、まだまだ自分の知らない場所がたくさんあるなあと思うようになって。もっと大きく目を広げてみて、世界の考古学ってどういうものなんだろうという興味が湧いてきたんです。目の前に飛び込んできたチャンスも大きいですね。
パナマ共和国は北アメリカ大陸と南アメリカ大陸のちょうど中間、繋ぎ目に位置しています。首都パナマシティには新市街地と旧市街地があるのですが、旧市街地が作られる前に実はもうひとつ古いまちがあった。そのまちをパナマ・ビエホというんです。ビエホというのはスペイン語で「古い」という意味。17世紀、スペイン人がカリブ海のほうからやってきて、最初に辿り着いた場所です。ユネスコの世界文化遺産に登録されている歴史都市なのですが、屋根や古い壁、石造りの建物があちこちに残っているところなんです。そのあたり一帯を保存修復するという国家プロジェクトに参加していました。
パナマは熱帯地方で、平均気温が35度。沖縄よりも暑いんです(笑)。昼間は40度を超えることもありました。雨期(4月から12月)と乾期(1月から3月)に分かれていて、乾期のあいだに集中的に発掘をするんです。炎天下の中、帽子を被ってね。発掘の最中、スコールに遭うこともしばしば。
——日本とはずいぶん気候条件も違うのですね。ホームシックにはならなかったですか。
まあ、もともと子供の頃から「どこかに行きたい」という願望は持っていたし、行くのが国内か海外か、という問題だけだったので。旅行でも何でもそうですけど、初めて辿り着く先では、僕は誰のことも知らないし、誰も僕のことを知らない。だから逆に、怖いものなんて何もなかったです。誰も知らないからこそ何でもできる。海外に出てみれば、日本では知り合えないような人と出会えるわけですからね。
——それから帰国後、2009年からウズベキスタン共和国での仕事を始められるんですね。
ウズベキスタン共和国は、中華人民共和国の西にあって、中央アジアに分類されます。砂漠がまちのすぐそばにある国です。そこの科学アカデミーというところに芸術学研究所の技術指導員として行くことになりました。僕が教えていたのは、いわゆる遺物整理学です。土器に描かれている文様の信仰や意味を研究する。考古学で描く「図面」というのは、写真ではわからない細かい線などを二次元化するというものです。測量法を基本にした教え方なのですが、やってゆくうちに、現地の他の学生さんもたくさん学びに来てくれました。
——現在参加されている高知県大豊町役場の「おおとよ結プロジェクト」について教えてください。
僕が今いるのは、高知県長岡郡大豊町というところです。高知県の北部に位置していて、四国山地の真ん中。平地がほとんどなくて、まわりには山と谷と川しかない。人口は4,500人ほどなのですが、ふたりにひとりが65歳以上という高齢化と過疎のまち。その条件で地域振興、いわゆる“まちおこし”をするのは本当に大変なことなんです(笑)。
今の仕事がきっかけで高知県に初めて住むことになったのですが、考えてみれば、日本と海外、場所は違えど「誰も僕のことを知らない」という状況は、今までのパナマやウズベキスタンと一緒だと思っています。しかも今回の仕事は専門の考古学ではないけれども、自分の中で考え方を変え、お寺などの地域の文化財を活用した地域振興ができれば、僕の領域で貢献できるかなあと。
——「結」という名前はどこから来ているのですか?
日本に古くから伝わる伝統文化のひとつに「結」と呼ばれるものがあります。有名なのは岐阜県の白川郷にある合掌造りの屋根の葺き替え。お祭りでも山仕事でもいいのですが、住民たちが助け合って短期間で成し遂げるというものです。大豊町でも「結」の伝統がちゃんと残っていることを知って、さらに調べてみると、これは日本全国どこにでもある考え方だとわかったんです。
大げさなことを言いますが、80歳の人たちに「考え方を変えろ」と唐突に持ちかけても、無理な話なんです。だから、おじいちゃんおばあちゃんたちが昔から自然に身につけてきたやり方を、地域振興に取り入れてみることが第一歩なのだと思った。江戸時代のお話に「三方一両損」というものがあります。
——「三方一両損」とはなんですか?
大岡越前の裁きのお話です。3両入りの財布を拾ったひとが落とし主に返そうとすると、落としてしまった以上自分のものではないと言う。そこで大岡越前のもとに赴き、ふたりが事情を説明すると、大岡越前は自分の懐から1両を出し、「これで4両になった」と言って、ふたりに2両ずつ手渡したんです。落とし主はもともと3両の手持ちが1両損をする。拾い主も黙っていれば3両貰えるはずだったものを正直に話して1両損している。大岡越前自身も1両損している。それぞれが1両ずつ損しているわけです。物事を解決させるという点では「何かを犠牲にする」というマイナスイメージを持たれる話かも知れないのですが、「ささやかながら」という、必要最小限の“気持ち”や“行い”から生まれる「結」の本質はここにあるんじゃないかと思っています。
実際、そういう(必要最小限の助け合い)仕組みにすればどうかと提案したら、結果的に人が集まるようになってきた。とは言っても、具体的には大して珍しいことをやっているわけではないです。高知市や他県の人に「大豊町でボランティアを募集しています」と呼びかけて、何かを手伝ってもらったお礼に、地元の人はお昼ごはんを食べさせてあげる。役場も、ただ仲を取り持つだけでなく、感謝の気持ちを込めて入浴施設の利用券をプレゼントする。どれもほんの気持ちですよね。「結」という字は「むすぶ」とも読みます。大豊町の人たちと他の地域の人たちを結ぶという意味も込められているんですよ。
——職種としては今までと違う部分もあると思いますが、「新しいまちの見方を発掘する」という意味では、根木さんのご活動は、岡山県での仕事からずっと繋がっている印象を受けます。
僕の根本はやっぱり、自分の知らないことを知りたい、見たことのない場所に行ってみたいという好奇心なのだと思います。行った先にどんな人が住んでいるのか、どんな風景があるのか、想像するのが好きなんです。その点では「この線路の向こうに何があるのだろう」と考えていた少年時代から通じるのかもしれませんね。いい加減、親は落ち着いてほしいと思っているみたいですが(笑)。
今後はこのプロジェクトに関わってくれる人たちがもっと主体的になれる仕組み作りをしたいです。大豊町の人たちも、ボランティアに来てくれる人たちも、「こういうことをしてみたい」というビジョンを持ってもらえるように。その想いが「結」となってことが起こってゆけばいいですね。骨格はできつつあります。これから肉付けをまちのみなさんとできればいいな。
インタビュー、文 : 山脇益美
2013年6月25日 電話にて取材
根木智宏(ねき・ともひろ)
1968年岡山県岡山市生まれ。皇学館大学卒業後、岡山県古代吉備文化財センターで県内の埋蔵文化財に関する調査研究・普及啓発事業担当を経て(1992年〜2001年)、パナマ・ビエホ財団考古学研究所で次席考古学研究員(2005年〜2007年)、ウズベキスタン共和国科学アカデミー芸術学研究所特任考古学研究者(2009年〜2011年)。2011年から高知県大豊町役場の臨時職員としてプロジェクト推進室おいでよおおとよプロジェクト担当、おもに地域資源や結いを利活用した地域振興策の策定や運営を行う。2013年京都造形芸術大学大学院芸術環境研究領域修了。
山脇益美(やまわき・ますみ)
1989年京都府南丹市生まれ。2012年京都造形芸術大学クリエイティブ・ライティングコース卒業。今までのおもな活動に京都芸術センター通信『明倫art』ダンスレビュー、京都国際舞台芸術祭「KYOTO EXPERIMENT」WEB特集ページ、NPO法人BEPPU PROJECT「混浴温泉世界2012」「国東半島アートプロジェクト2012」運営補助、詩集制作など。