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アネモメトリ -風の手帖-

風を知るひと 自分の仕事は自分でつくる。日本全国に見る情熱ある開拓者を探して。

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#110

甑島にも全てある。離島を諦めない人が、風景を継いでいく
― 山下賢太

(2022.01.09公開)

鹿児島県の川内港より高速船で50分に位置する甑島(こしきしま)。この島で生まれ育った山下賢太さんが「東シナ海の小さな島ブランド株式会社」を設立して、今年はちょうど10年目の節目を迎える。手作り豆腐の販売を皮切りに、特産品の商品開発、集落ガイド、宿泊施設やカフェ経営に至るまで、数多くの事業を展開してきた山下さんだが、それらはあくまで甑島らしい日常を続けるためにやってきた事業なのだという。コロナ禍での事業の舵取りや、島の空き家と向き合う新会社の立ち上げについても話を伺った。

甑島、中甑島、下甑島の三島からなる甑島には、現在4300人程の島民が暮らしている

甑島、中甑島、下甑島の三島からなる甑島には、現在4300人程の島民が暮らしている

山下賢太さん

山下賢太さん

———島に点在する空き家の管理運用を主な目的とした「島守株式会社」を新たに設立されました。全国的な課題となっている空き家ですが、甑島でも喫緊の課題となっているのですか。

これまでは空き家があっても、島にいる家族や親戚が、庭の草取りや部屋の空気の入れ替えをしたり、台風シーズンにはその備えをしたりと住宅の保全管理を担ってきたのですが、甑島も高齢化が進んでいく中で、難しくなってきている実情が見えてきました。空き家が増加するということは、将来的に空き地が増えることを意味していて、空き地は集落のコミュニティを薄め、そこにあった島固有の伝統や生活文化を衰退させていきます。そもそも空き地が増えれば、人が暮らす機会も失われてしまいますので、空き家は集落の存続を考える上でも大きな課題です。それから弊社のスタッフも増えたり、島外から移住を希望してくれる人がいる中で、島には不動産を扱う事業所がほとんどなく、窓口も少しわかりにくかったりするんですね。だったら誰かがこの課題を解決してくれるのをただ待つのではなくて、自分達で今からでもできることがあるんじゃないかと思い、会社の設立に至りました。

島にある空き家の様子。甑島でも保全管理が行き届かなくなった空き家が増えてきている

島の空き家の様子。甑島でも保全管理が行き届かなくなった空き家が増えてきている

———空き家によってはかなり傷んだ住宅もあるかと思います。以前は氷屋として島民に親しまれていた廃屋を大改修し、豆腐屋としてオープンさせた「山下商店甑島本店」が前例としてありますが、空き家についても、既存の建物をなるべく活かしていくことを念頭に置かれていますか?

古民家に拘っているわけではないですが、魅力ある建築をひとつでも多く繋いでいきたいという思いはあります。一般的には改修する方が新築よりも費用が高くつくと言われていますが、それは僕らが生きている間の時間軸に限っての話なんですよね。2世代、3世代先にも残していける財産を改修していると思えば、費用の見え方も変わってくる。僕らが大事にしているのは100年とかもう少し長い単位の時間軸なんです。それから山下商店のように、その土地や建物の思い出を島民の方々は少なからず持っています。今は廃屋同然となってしまった住居でさえも、誰かにとっては大切な思い出でありルーツだから、柱1本でも活かせるなら使いたい。つくっては壊す、スクラップアンドビルドではなく、住居が家族の財産としてはもちろんのこと、集落の風景としてもどう積み上げていくかを考えながらやっています。オーナーの意向や建物の状態と相談しながらですが、島の記憶も大切にしていきたいと思っています。

廃業して長年放置されていた「服部ナツ商店」を改修している様子。店前でかき氷を食べたり、ビールを飲んだりと、かつてを知る高齢者にとって、ここは青春時代の思い出の場所として記憶に刻まれている

廃業して長年放置されていた「服部ナツ商店」を改修している様子。店前でかき氷を食べたり、ビールを飲んだりと、かつてを知る高齢者にとって、ここは青春時代の思い出の場所として記憶に刻まれている

完成した山下商店甑島本店の外観。店では豆腐の製造販売のほか、服部ナツ商店にあやかって新名物「とうふ屋さんのかき氷」の販売も行っている

完成した山下商店甑島本店の外観。店では豆腐の製造販売のほか、服部ナツ商店にあやかって新名物「とうふ屋さんのかき氷」の販売も行っている

———中学生の頃は騎手を目指されていたそうですね。騎手を目指していた少年が、美大に入学し、甑島のために事業を始めるようになった経緯を教えてください。

甑島には高校がないので、中学を卒業した島内の子供は、島を離れて本土の高校に通います。僕自身は高校へ行かずにJRAの騎手課程に進みましたが、減量に失敗して挫折しました。その後、1年遅れての高校生活を送っていた高校3年の春休み、久しぶりに島へ帰省した際に、子供の頃によく遊んでいた港にふと寄ってみたんですね。そこには島に自生するアコウの木があって、夕方にはその木の下に地域の人々が集い、みんなで夕涼みをしながら、昨日はどこどこの船が大漁だったとか、今日は満月だから魚が獲れないとか。ある時は、いつも港に来るばあちゃんが、今日は来てなくて体調崩していないか心配だから帰りに声をかけてみようとか、何気ない風景なのですが、島の暮らしが凝縮したような場所でした。僕にとっても故郷の原風景だと思っていた場所でしたが、港周辺の道路工事がきっかけで、その原風景は失われてしまいました。工事によって漁業が発展し、島の土木業者の経営が成り立ち、会社からの賃金で従事者の家族が養われ、島民の生活が成り立っていく。その一方で、甑島らしい暮らしの時間や場を失っていく。原風景を失ったあの時の悔しさみたいなものが、現在の原動力となっています。

港の以前の風景

———それで京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)の環境デザイン学科を志望されたんですね。

先の出来事をきっかけに、いわゆる都市計画や集落づくりと向き合わざるを得なくなりました。島の人々が集い、世間話が飛び交ったあの港の風景にも価値があると、誰かがそんな物差しを持つことができていたなら、もしかしたらあの時の工事は行われなかったかもしれない。合理的で効率化された村づくりではなく、島に暮らすひとりひとりが幸せだと思える村を目指すには、文化的な物差しで村づくりを捉え直す必要があるんじゃないかと思ったんです。その物差しを学ぶために、環境デザイン学科に以前あった地域デザインコースに入りました。

———京都での美大生活、物差しとなる気づきはありましたか?

京都の和雑貨メーカー「株式会社くろちく」の黒竹社長が、大学へ特別講義に来ていただいたことがあって、そこで社長が言われたのは「儲けた金は文化に使え」でした。会社が生業としている商品は、先人たちの生活文化の営みの上に成り立っているものであるから、商売で得た利益はまた京都という街に還元して、次の世代に文化を引き継いでいかなければならないと。
世界を魅了する京都は決して特別な街というわけではなく、黒竹社長のような文化に光を当てたり、育てたりする人の存在が、京都を京都たらしめていることに気付かされて、じゃあ自分の島はどうか。実は姿形や自然環境が違うだけで、甑島にも生活文化や食文化、歌に踊り、方言があり、気候に適応した独自の住居様式があったりと、京都にあるものは甑島にも全てあるんですよね。でも、僕たちは、そのことに気付けていないというか、どれもが当たり前すぎて今ここにあるものを素直に認められないから、口を揃えて甑島には何もないと言ってしまう。京都という街に住んだことによって、その誤解に気づけたのは大きかったですね。

———甑島に帰島されてからは、まず農業を始められました。

島にあった風景を自分の手でもう一度作り出すことを経験したくて始めたんです。でも、いざ農業をやってみてわかったことは、風景は経済と密接に結びついていることでした。経済や村の仕組みを無視して風景を続けさせていくことは難しい。じゃあ失われた港のあの原風景を、どうすれば経済と結び付けて守ることができたのか。集落のまち歩きガイドや特産品の開発を始めたりと試行錯誤をしていく過程で、観光というものに少しずつ思いがスライドしていったんですね。

2児の父親として様々な地域活動にも参加されている山下さん

2児の父親として様々な地域活動にも参加されている山下さん

———集落ガイド「しまなび」に始まり、宿泊施設「FUJIYA HOSTEL」やカフェレストラン「コシキテラス」など、観光事業を次々と展開される最中、コロナ禍に見舞われました。コロナ禍中での出来事について伺ってもよろしいですか。

僕らの会社もコロナの影響をもろに受け、特に宿泊業は一時期、昨対比の96%減という惨憺たる状況でした。ただ、そこまで悲観的にならずにすんだのは、地域密着で展開していた事業が、このコロナ禍でも売上が大きく変わることがなかったからです。山下商店で製造した豆腐は、店だけでなく、上甑島と中甑島一帯にラッパを吹いて売りに回っているんですね。コロナ禍で買い物にも行きづらい状況の中、家の玄関先まで訪ねる豆腐販売は、島民の方にすごく喜んでもらいました。現在も、新たな資金調達を行いながら全事業を継続することができています。画像11

更にこの時期に「オソノベーカリー」というパンと軽食を提供する店もオープンさせました。コロナも落ち着いたここ最近は、観光客にもお越しいただいているんですが、実はオソノベーカリーがフルタイムで開いているのは、週末のみ。平日に至っては、週3日の午前中の2、3時間しか営業していないんです。いかに店を開けないかが裏のコンセプトで、店を閉めている時間帯は、高齢者向けの地域サロンや子供達の英会話スクールを開いたり、地域の人たちのコミュニティスペースとして店を利用してもらっています。オソノベーカリーは、お店というよりも、もうひとつの家のような地域の居場所を目指しているんです。弊社は、設立当初より観光事業を推進してきた会社でもありますが、観光客や観光業者のためだけのサービスや場づくりをしたいのではなく、私達自身がどんな島で暮らしていきたいかをひとつずつ叶えていくのも観光の役割なんだと今改めて感じています。自分達のありたい地域の姿を、いかに観光業が支えるかということですね。

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———地域振興のために地域の人々や暮らしを犠牲にしてはいけないと?

不自然に頑張りすぎないことが大切です。当たり前のことですが、頑張り続けないと成り立たないサービスは、頑張り続けないと成り立たない。それでは、いつかどこかで誰かにしわ寄せがいってしまうし、人の存在が益々重要となっていく時代に、人を犠牲にするような従来の仕組みでは地域の存続は難しい。例えば、これまでのビジネスならたった1人のためのサービスって、儲けがないからやれないという判断になりがちなんですけど、これからの社会は、たった1人のためのサービスをいかに諦めずにやっていくか。少なくとも僕らは、そんな会社でありたいと思っています。

———今年(2022年)で会社は設立10年目を迎えます。どんな展望を描かれていますか。

展望と言えるかわからないですけど、離島を言い訳にしない時代を作りたいと思っています。離島だからできない、離島だから諦めなければならないとか、今まで離島という存在は、島民にとって何かを諦める足枷みたいなものになっていて。そうじゃなくて、離島だからこそできたと言われるような時代を作るために鹿児島県内の離島と連携して、鹿児島の離島文化経済圏を作り直すチャレンジをしている途中です。県内には奄美大島や屋久島のような大きな島があったり、50~100人程しか住んでいない小さな島もあったりと多様性に富んでいます。それぞれの島の個性や魅力を自覚し、離島同士が連携し合って、誰かのできない理由をひとつひとつ解決していく。課題や足枷だと思っていたものが、見方を変えればものすごい価値だったりもするので、既存の枠組みに囚われず、一歩引いた海域という視点で挑戦をしていくんだろうなって今ぼんやり描いています。

取材・文 清水直樹
2021.11.24 オンライン通話にてインタビュー

プロフィール

山下賢太(やました・けんた)
<略歴>
1985年、鹿児島県上甑島生まれ36歳2児の父。東シナ海の小さな島ブランド株式会社、島守株式会社の創業者であり代表取締役。JRA日本中央競馬会競馬学校を中退後、16歳で無職。きびなご漁船の乗組員を経て、京都造形芸術大学環境デザイン学科卒業。日本の水産業に新たな選択肢をつくる FISHERMANS FESTや鹿児島離島文化経済圏を監修。山下商店甑島本店・FUJIYA HOSTEL・コシキテラス・パンと週末食堂オソノベーカリー等、地域固有の建築空間や公共施設などの小さな拠点の再生に取り組みながら、農林水産物の生産現場から食卓まで一貫したデザイン経営と、あらゆる地域資源が循環するしあわせなもの・コトづくりを通じて「世界一暮らしたい集落づくり」を目指して、新時代の村づくりを実践している。

<その他役職>
内閣官房 ふるさと活性化支援チーム(19’-20’)、九州地域間連携推進機構株式会社[鹿児島市]取締役、Island partners 代表、Encounter Japan Inc.[メキシコ] 執行役員、三麓株式会社[屋久島]取締役、KIRIN地域創生トレーニングセンタープロジェクト2期生、JR東日本企画ソーシャルビジネス局 社外アドバイザー、上甑島地域雇用・移定住対策協議会理事、FISHERMANS FEST・鹿児島離島文化経済圏プロデューサー

<受賞 他>
かごしま人・まち・デザイン賞 都市デザイン部門 コシキテラス 優秀賞
かごしまの新特産品コンクール食品部門『漁師印のキビーニャカウダ』
鹿児島県観光連盟会長賞受賞(2019)、京都芸術大学 瓜生山学園賞受賞(2021)


清水直樹(しみず・なおき)
美術大学の写真コースを卒業し、求人広告の制作進行や大学事務に従事。
現在はフリーランスライターとしてウェブ記事や脚本などを執筆。