アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

風を知るひと 自分の仕事は自分でつくる。日本全国に見る情熱ある開拓者を探して。

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#5

縁でつながってきた人と場所
― 飯田ひとみ

(2013.04.05公開)

 飯田ひとみさんは持ち前の明るい性格と行動力を生かして、東京電力の企業PR館に勤務する傍ら、近くに住んでいた人たちと落語会を開催してきた。だが2011年、東日本大震災による影響を受け、勤めていた館が閉鎖。しかしその逆境に負けず、2012年「今だからこそ」と本格的に落語をプロデュースする会社を立ち上げた。「今の私があるのは、何事も縁でつながってきた人と場所のおかげ」と語り始めた、落語と笑顔にまつわるものごと。

——幼少の頃について教えてください。

私は東京都江東区の出身なのですが、子供の頃から宝塚歌劇を観に行くのが好きでした。日本舞踊やダンスのレッスンにも通っていましたね。高校生になると、ひとりで映画館にも出かけたりして。今思えば、作品を観るのはもちろん、その場所に行って、感動しているお客さんの姿を見ているのが楽しかったんです。 ——落語を聴くようになったきっかけは何だったのですか。

もともと東京電力のPR会社に就職し、会社で開催するイベントを企画したり、パンフレットを制作したりしていました。その一環でギャラリーを貸す業務もしていたので、学芸員の資格を取得したいと思い、並行して京都造形芸術大学に入学することにしたんです。通信教育部卒業後は、東京にあるテプコ(TEPCO:Tokyo Electric Power Co.の略)浅草館という、明治から昭和の下町の暮らしや浅草の文化芸能を紹介する体験型施設に配属されました。浅草という土地柄、寄席のご近所から落語家さんや芸人さんがよく遊びに来てくれ、それが落語にのめり込むきっかけでしたね。親しくなると、寄席のチケットをいただくようになって「聴きにおいでよ」なんて声をかけてもらえるようになりました。

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——落語をプロデュースするようになるまでの経緯について教えてください。

浅草に有名な喫茶店があって、当時の私は会社が開催するイベントのチラシやポスターを配りに行っていました。そこで、地域寄席の席亭(※1)をやっている方と知り合ったんです。話を聞くと、いろんな事情があってかれこれ5年、地域寄席を休んでいるのだと。そのときに「もう一度再開したいと考えている。飯田さん、よければ席亭してくれない?」と誘われました。私もふたつ返事で「いいよ」と言って(笑)。それからですね。その方が住んでいた松葉町という地区にある会館を借りて「松葉寄席」という落語会を再開することになりました。桂文治(※2)師匠にも出演していただき、当日は大盛況。新聞にも取り上げていただいたんですよ。その活動が、寄席発祥の地である下谷神社で開催している「下谷寄席」となって、現在まで続いています。 ※1 寄席における主人のこと ※2 当時は平治 ——飯田さんがこれまで携わってきた落語会の中で、印象に残っているものはありますか。例えば「はなし塚」というものがある、本法寺の本堂で行った「禁演落語会」について伺いたいです。

本法寺は東京都台東区にあります。太平洋戦争へと向かう戦時下、落語界において、内容や風紀の問題から(くるわ)噺など53種を「禁演落語」として選び出し、塚の中に台本を納めて自粛するというできごとが起こりました。その納め先として作られたのが「はなし塚」です。結局それらの落語は戦争が終わった秋に解禁されたんですけど、その歴史を紐解いてゆくと、すごく興味深かったんですね。そんな背景があって、私たちは「二度と落語を禁演にしない」というポリシーを掲げ、はなし塚のあるこのお寺で、5年前から落語会を行っています。

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——2年前のお話について聞きたいです。

2011年3月の東日本大震災が起こった当時、私は別の館に転勤になっていたのですが、いろいろな意味で「うちの会社はどうなるんだろう」という気持ちでいっぱいでした。震災直後から会社が開けられなくなって、結局PR館は全館閉鎖になり、組織自体も解散してしまったんです。 なんだかんだ言って、私は会社が大好きでした。戦後の経済成長を迎える中で、人びとが電気を身近に使えるようになって、いっそう生活が豊かになってゆく。電気というものは幸せや明るさの象徴なんですよね。映画やテレビやラジオが普及して芸能が肥えていったのも電気があったからこそです。その中で私は、電気の始まりというものをお客さんに紹介する役割を担っていましたから。それに会社のおかげで、たくさんの方に出会うことができ、趣味で落語会をやってみるということができたわけですからね。 ——先行きの見えない状況の中で、震災直後であっても飯田さんたちによる落語会は開かれたそうですね。改めて落語の魅力を、どういうところに感じられたのですか。

震災の約1週間後にも、私たちは大事な落語会の予定を立てていました。東京ではもっとも停電が心配されていた時期だったと記憶しています。それ以外にもいろいろなアクシデントが起こって、電車が止まってしまい、せっかく予約をしていたのに来られないというお客さんも多かった。「こんな日々でこれから落語会なんてできるのか」と悩んだのですが、それでも懐中電灯を用意したりして、できるだけ通常どおりに開催することを選びました。こういうときこそ笑いが必要だ、という気持ちがいちばんに浮かんだんです。実際、電車が止まっていても、何駅も歩いて会場に来てくださったお客さまがいたし、「やってくれてありがとう」と温かい声をかけてくれる人がいました。それが今のステップへの原動力となりましたね。

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——特に落語というものは、話芸だけでお客さんを惹き込むことができる、座布団1枚でお客さんとの関係が成立する、というところに面白さがあると思います。

そうですね。本当にあの日、あの場所で起きた一体感は忘れられません。大変だけどこうして続けていられるのは、お客さまの笑っている顔が見られるからです。たくさん笑ってもらって、人の心が楽しくなるというところが、私が感じる落語というものの最大の魅力です。 ——飯田さんはこの度、本格的に落語をプロデュースする会社を立ち上げられましたね。これからどういう気持ちで取り組みたいですか。

「オフィスマツバ」という会社名は、初めて地域寄席を行った当時の町名であり、タイトルにも掲げた落語会の名前「松葉」から付けています。いつまでも初心を忘れずに、という気持ちが大きいですね。職業として落語をプロデュースするという立場になって、私は橋渡しの役割、つなぎ手の役割ができるようになったと捉えています。何より私の人生は、大事なご縁で成り立ってきたわけですから。今後も定期的にお客さまに喜んでもらえる落語会を続けて、お客さまにも落語の師匠方にも、応援していただけるような人になれればうれしいですね。

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インタビュー、文 : 山脇益美
電話にて取材

飯田ひとみ(いいだ・ひとみ) 東京都生まれ。京都造形芸術大学・文化学院卒業。企業PR館の学芸員を経て、落語のプロデュース活動を始める。演芸・落語会の企画運営会社「オフィスマツバ」代表。下谷寄席(寄席発祥の地 下谷神社)などの地域寄席を多数開催。十一代桂文治襲名披露公演(日本橋劇場)をはじめ、ホール落語会のあだち落語会なども企画開催。2010年東京芸術大学の彫刻と落語のコラボレーション企画、彫刻アートプロジェクト「時空の街」の落語会(65回文化庁参加公演)や歌舞伎茶屋の「江戸落語を食べる会」の落語会もプロデュース。2013年7月、京都造形芸術大学東京芸術学舎で落語の講座を担当予定。http://www.syoza.com/

山脇益美(やまわき・ますみ) 1989年京都府生まれ。2012年京都造形芸術大学文芸表現学科クリエイティブ・ライティングコース卒業。おもな活動に京都芸術センター発行『明倫art』ダンスレヴュー、京都国際舞台芸術祭「KYOTO EXPERIMENT」WEB特集ページ担当など。