沖縄の焼物の中心地は時代の状況によって移り変わってきました。
どのような事情で焼物の中心地が移動してきたかと、現在多くの窯元が集まり焼物の中心地となった読谷村(よみたんそん)の「やちむんの里」をご紹介します(「やちむん」とは沖縄の言葉で焼物のことです)。
沖縄の製陶は、琉球王国時代の14世紀から16世紀ごろ、中国や東南アジアから伝来したといわれています。
各地に窯が作られ製陶が行われていましたが、殖産振興の目的で、1682年に琉球王府は製陶産業の集約を行います。その際、選ばれた場所が、現在の那覇市壺屋地区でした。沖縄市知花地区、那覇市首里宝口地区、那覇市湧田地区にあった窯場をここに統合し、焼物のまち「壺屋」が誕生しました。
王府の庇護のもと壺屋地区は焼物のまちとして栄えましたが、明治になり本土から安価な陶磁器が流入し、壺屋の焼物は苦境に立たされます。しかし昭和初期、民芸運動の中で壺屋の焼物は高い評価を得て、陶工たちは作陶を続け「壺屋焼」として伝承されました。
太平洋戦争の沖縄戦でも壺屋地区は奇跡的に被災を免れました。食器などの生活必需品を作るため、戦後、収容所に収容されていた壺屋の陶工たちは、いち早く帰郷が許されます。戦後復興の中心となった壺屋とその周辺には多くの人々が集まってきました。
しかし皮肉なことに壺屋地区の都市化が進んでいくと、焼窯の煙が公害問題とされはじめました。そして昭和49年(1974年)には那覇市公害防止条例が制定され、登り窯をはじめ壺屋の薪窯はその火を落としました(写真1)。
壺屋地区でガス窯や電気窯で焼成を続けていく窯元もありましたが、登り窯にこだわりをもった陶工たちは、作陶の場を求めて壺屋を離れ始めました。
一方、当時、米軍基地が返還され広大な土地の利用方法を模索していた読谷村は、窯元の招致活動を行います。条例制定に先立つ昭和47年、沖縄県で初めての人間国宝(「琉球陶器」技能保持者)となった金城次郎氏は、読谷村座喜味地区に新たに登り窯を築窯し、作陶を開始します。
この地区には多くの陶工が集まり陶芸村が形成されます。これが現在の「やちむんの里」です。
「やちむんの里」には共同登り窯が作られ、多くの陶工たちが作陶を行い、現在の沖縄焼物の中心地となっています(写真2)。
(儀間真勝)
参考
壺屋陶器事業協同組合 壺屋焼とは
https://tuboya.com/about/
YouTube 沖縄県読谷村 やちむんの里 紹介映像
https://www.youtube.com/watch?v=p20vuAuUTQA