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アネモメトリ -風の手帖-

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#139

富山県のシンボル「立山」とその信仰
― 富山県中新川郡立山町

「立山」は、富山県のシンボルです。万葉集に「立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」(巻174001 大伴家持)と詠まれたように、その姿は神々しく感じられます。「立山」とは、立山連峰のうちの雄山、大汝山、富士ノ折立の三峰のことをいい、最高峰は3015mあります。神の山と云われる立山ですが、『今昔物語集』には「立山地獄」の様子が書かれていて、山の中に地獄があるとされています。江戸時代には多くの人が登拝したそうです。あらためて、立山とはどういうところなのだろう、という思いから、今回、「立山」の名を冠する富山県[立山博物館]に行ってきました。
立山は、大宝年間(701704)に慈興上人が開いたとされています。慈興上人は、越中国司の佐伯有若の息子で、名を有頼といいました。
ある時、有頼は有若が大切にしていた白鷹の行方を失い、それを追って山へ入って行きました。白鷹を見つけた有頼でしたが、そこに熊が現れ、有頼は熊に矢を放ちました。有頼が飛び立った白鷹と矢の刺さった熊のあとを追って玉殿岩屋という洞窟に辿り着くと、そこには胸に矢が刺さった阿弥陀如来と不動明王が立っていました。熊は阿弥陀如来、白鷹は不動明王だったのです。そして、矢を放ったことを悔いている有頼に、阿弥陀如来が立山開山を命じたということです。
鎌倉時代の終わりには芦峅寺集落と岩峅寺集落に立山権現を祀るための仏教施設などが作られ、江戸時代には両集落に多くの宿坊がありました。「立山曼荼羅」は、宿坊の衆徒が立山信仰を全国に教導するために使用したものだそうです。立山曼荼羅には、立山開山縁起、立山地獄、立山浄土、立山登拝道や伝説などが描かれています。一連の流れを見てみると、立山への登拝とは、生きながら死後の体験をして戻ってくる、擬死再生の儀礼だと感じました。
立山とは、という問いに答えるにはまだまだ勉強しなければなりませんが、日常に望む、何度も登山したことのある山が、単にシンボルというだけでなく、これを機に随分違って見えるようになりました。
富山県[立山博物館]は、展示館を中心にした広域分散型の博物館です。ここに記したのはほんの一部分。布橋灌頂会やうば堂、閻魔堂など、紹介できなかったところがたくさんありますので、ぜひ、来てみて立山を体感してください。

(加藤明子)

富山県[立山博物館]
http://www.pref.toyama.jp/branches/3043/home.html

富山平野から望む立山連峰。雪が平らになって見えるところが弥陀ヶ原で、画面左側が「立山」です

富山平野から望む立山連峰。雪が平らになって見えるところが弥陀ヶ原で、画面左側が「立山」です

富山県[立山博物館]の展示館

富山県[立山博物館]の展示館

立山曼荼羅(展示館のパンフレットから)

立山曼荼羅(展示館のパンフレットから)