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アネモメトリ -風の手帖-

風信帖 各地の出来事から出版レビュー

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#227

街の巨石
― 岩手県盛岡市

皆さんは岩手県の県名の由来をご存知でしょうか。伝説によると一千年もの昔、今の盛岡の地に羅刹と呼ばれる鬼がいて、悪行の限りを尽くしていました。困り果てた人々は信仰の対象となっていた三つの巨石を祀る三ツ石神社に祈願します。すると鬼は神様の神通力でその巨石に捕らえられ、もう二度と悪さをしない、この地に来ないと約束させられます。神様は鬼の改心を認め、その証として鬼は巨石に手形を押します。これが「岩」に「手」で、岩手の名称の由来となったと言われています(註1)。この伝説に出てくる神社と鬼が手形を押したと言われる巨石(三ツ石)は、市の中心部にほど近い場所に実際にあります。「鬼の手形の跡は苔が生えていない」「雨上がりには手形がうっすら見える」とも言われるこの巨石。私はこどもの頃、手形らしきものを見た、という記憶がありますが、こどもながらの願望も混じった視線だったかもしれません。いずれにしても今は長い歳月と風化で巨石表面の表情は変わっていっているようです。因みに、盛岡の地は昔「不来方(こずかた)」と呼ばれていました。現在でも高校の名称をはじめ、地元では耳にする馴染みの言葉ですが、それはこの羅刹伝説において、鬼が〈この地にもう来なくなった〉ことからきているとされます(註2)。さらに鬼が退治されたことを喜び、人々が「さんさ、さんさ」と踊ったことが盛岡さんさ踊りの起源とされており、今でも祭り開催の時期には奉納演舞がこの神社で行われます(註3)。

三ツ石神社の三ツ石。その高さは大人の身長の倍以上あります

三ツ石神社の三ツ石。その高さは大人の背丈の倍以上あります

三ツ石神社から少し離れた市の中心部、県庁や市役所が立ち並ぶ通りにある盛岡地方裁判所の敷地内には、もう一つの巨石が横たわっています。ここはもともと南部藩の家老のお屋敷でした。真っ二つに割れたそれからは1本の古い桜の木が伸びており「石割桜」と呼ばれます。これは巨石にもともとあったひびに桜の種が落ち、そのひびを押し広げながらたくましくも成長したものであるとか、落雷で巨石が割れ、その間に桜の種が落ち成長したものなどと言われます(註4)。巨石は周囲21メートルもありますが、裁判所建設の際、地下工事で出た土で敷地を埋めたため、それ以前は現在よりもさらに数十センチ地面から露出し、大きく見えていたようです(註5)。また桜も樹齢360年以上と言われ、巨木と言えます。桜が石を割ったか、石の割れ目に桜が生えたのか、という議論は昔からあるようですが、少なくとも成長過程では大正1、2年から30年ほどで、測定箇所によっては最大5.5センチ、石の割れ目が広がっていたそうです(註6)。国の天然記念物に指定され観光スポットにもなっているこの桜の木ですが、県内の桜の中でも早く花が咲くため、花見の季節の到来を告げるものとして地元でも春の話題に上ります。

石割桜。桜の根は岩の割れ目の部分で板状になっています

石割桜。桜の根は岩の割れ目の部分で板状になっています

この石割桜からさらに少し歩くと、盛岡城趾公園があります。現在は石垣と堀だけが残っていますが、その石積みの美しさから東北三名城にもなっています。敷地内には盛岡南部藩の総鎮守である櫻山神社が鎮座しており、この神社の本殿すぐ横、奥まった場所を見上げると「烏帽子岩(兜岩)」と呼ばれる巨石が現れます。この巨石、というより岩は盛岡城を築城する際に掘り出されたもので、当初は上部の三角状の部分のみが見えていました。工事に際し掘り出そうとしますがその根は深く、結果これだけ巨大な岩が出現します(註7)。案内版によると、その高さ2丈(約6メートル)ばかり。この場所が城内の祖神さまの神域にあったため「宝大石」と喜ばれ、以後盛岡の「お守り岩」として広く信仰されるようになったそうです。

烏帽子岩。神社の屋根と比べてもその大きさがわかります

烏帽子岩。神社の屋根と比べてもその大きさがわかります

三ツ石、石割桜、烏帽子岩。こうしてみると市の中心部には集中して巨石があることがわかります。そしてこれらはどれも花崗岩です。盛岡城の石垣も盛岡産の花崗岩で、さらに城が花崗岩の岩盤からなる地山の上に築かれていることから、築城時に掘り出されたものを加工し使用したり、巨石が露頭した部分をそのまま石垣の代わりとしている箇所もあります(註8)。このことから、盛岡城趾をはじめ今の市街地一帯が花崗岩の豊富な場所であったことがわかります(註9)。この土地ならではの特徴から巨石が生まれたわけですが、その地に人間が生活することで信仰や伝説、名称、風習、祭りなどが生まれたと言えます。これらはひとえに人間が自然と関わることで抱く、自然に対する畏敬の念の表れでしょう。そして、こうした産物は自然への向かい合い方が変わった現代の私たちの生活にまで流れ込んで、文化や伝統として息づいています。自然をコントロールし、技術(機械)で支配しようとする近代以降、文化や伝統は人間がすべて創っているように錯覚しがちですが、実はそれを規定しているのは自然であり、自然のなかで人間が生きていくことではじめて生まれ出るものがあることを私たちに思い出させます。

盛岡城趾。奥が通常の石垣。手前は天然の巨岩が露頭したものをそのまま活用しています

盛岡城趾。奥が通常の石垣。手前は天然の巨岩が露頭したものをそのまま活用しています

(註1)
及川悌三郎『盛岡市文化財シリーズ第13 盛岡の伝説』盛岡市教育委員会、1985年、pp.4-7。

(註2)
不来方の地名が改名されたのは盛岡城築城のころで、はじめは「森ケ岡」、のちに「森岡」「盛岡」となりました。
櫻山神社編『盛岡城趾鎮座櫻山神社』櫻山神社、2013年、p.7。

「市名の由来」いわての文化情報大辞典
http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/p1498

(註3)
「さんさ踊りの由来」
盛岡さんさ踊り公式ホームページ
https://sansaodori.jp/about/

(註4)
岩手日報社出版部編『岩手の伝説を歩く』岩手日報社、1994年、pp.182-183。

(註5)
千種達夫『石割桜』盛岡観光協会、1959年、p.8。

(註6)
千種達夫「石割桜あとがき」
※ 参照した『石割桜』巻末に添付されていた新聞記事の切り抜きのため、掲載年月日は不明

(註7)
櫻山神社編『盛岡城趾鎮座櫻山神社』櫻山神社、2013年、p.29。

(註8)
櫻山神社編『盛岡城趾鎮座櫻山神社』櫻山神社、2013年、p.17。

(註9)
ボーリングでの地質調査でも盛岡は「市街地の大部分で花崗岩が基盤をなしている」そうです。
岩手大学工学部建設環境工学科地下計測学研究室 盛岡市域における地盤特性と詳細震度のページ
盛岡市域の地盤特性
http://insziban.cande.iwate-u.ac.jp/ground/2-3.html

ボーリングで確認された基盤岩類の分布(1977
http://insziban.cande.iwate-u.ac.jp/ground/fig2-4.html

(大矢貴之)