TV、ネット配信、DVDなどの光学メディア。現代の私たちは映像作品を観るための様々な手段を持っています。そのなかで、誰でも一度は利用したことがある昔ながらのものとして、映画館が挙げられるのではないでしょうか。手軽にいつでもどこでも利用できる他の方法と違って、映画を観るためにわざわざ足を運び、そして不思議とそれを観た当時の思い出と共に、作品の数々が心に残る場所。今回は盛岡を舞台に、映画館と街を巡る歴史を紐解きたいと思います。
現在の盛岡市中心部は、盛岡駅から盛岡城跡公園に向けて、官庁や企業のビルが立ち並ぶ「中央通り」と、これと平行して主にカラオケ店や飲食店、様々なショップがある「大通り」、そのさらに一本奥の百貨店があるエリア、そしてそのエリアに向かって上記の通りを縦に貫く「映画館通り」などから形成されています。このうち映画館通りはその名の通り、映画館が立ち並ぶことからその名がついています。
盛岡における映画の歴史は、いくつかあった芝居小屋で行われていた不定期の映写会を経て、常設興行をする「記念館」の開館から始まります。大正4年のことだそうです。当時の地元新聞によると「二階は一等と二等とに区別し、全部畳を敷き詰め、雛段となっている」「下は全部土間とし、一等席二等席、普通席に別ち、手擦を以て区画し、夫々椅子又はベンチに腰掛ける事となって居る。七百人の定員なさうである」と紹介されており、また「内側は壁も柱も鈍色に塗られて、之は光の反射を弱め、眼の疲労を減ずる為なそうである。(……)こんな処は、その為に造られた常設館に始めて得られるべき特点であろう」とも指摘されています(註1)。
この記念館を皮切りに、既存の芝居小屋が映画館として運営を始めたり、洋画専門の館が新たにできるなどし、昭和初期には市内に5館の常設館があったようです。これらの活況が如何ほどだったかは、仙台に事務所を置いていた北日本劇場映画連盟の発行する機関誌のなかで、盛岡を「人口五万を有し、南部鉄瓶と共に馬の産地。旅団司令部の所在地で、常設館は日活系一本、松竹パ社系一本、河合系一本、新興映画の藤沢座と盛岡劇場の専門劇場とがある。何れも競争激甚なるも、人口二十万を有する仙台の市で、僅か五本の常設興行を持て余すに比較すれば、此処南部領は、先ず以って無難の興行地帯である」と評されていることから分かります(註2)。そうした土壌の上に、昭和10年、南部土地株式会社の主唱によって新たな映画館「中央映画劇場」(以下中劇)が誕生します。これは盛岡に於ける近代興行の幕開けとされていますが、ではなぜ土地の開発会社が映画館の設立に関わったのでしょうか。
歴史を辿ると江戸時代、先に紹介した盛岡市中心部一帯は、盛岡藩主の南部家の御菜園でした(註3)。そのため明治に入り、盛岡駅ができた際も、ここは手つかずのままだったと言います。そこで、盛岡駅から盛岡城までのこの一帯を新市街地として造成するため、南部家から土地を買い取り、整備に着手したのが南部土地株式会社でした。そして、この地域を発展させる起爆剤として着目したのが映画館だったのです。
中劇の設立趣意書には「映画が大衆娯楽の第一位にある事は、誰しも疑はぬ所。(……)吾等計画の映画常設館は、大衆の娯楽を満足せしむるは勿論、世界に於ける文化の発達、科学の進歩を紹介し、社会教育、思想善導等のために貢献すると共に、其の土地の繁栄をも助長せんとするものであります。即ち、本事業は、半ば公共的見地より計画したものであると称して憚りません」とあります(註4)。映画館が単に娯楽の殿堂であるだけでなく、社会教育等の場でもあり、またその設立が地域振興にも繋がる、公共性の高いものだというこの主張は興味深いものがあります。これはどこか、近年の新設美術館や芸術祭が唱っている設立・開催趣旨にも似ています。
中劇を運営していた株式会社中央映画劇場は、その経営を軌道に乗せると、隣接地にもう1館「第一映画劇場」を建設します。ここは東宝との間に賃貸契約を締結して運営されました。これによって、地元だけではなく中央の経営感覚が取り入れられ、また隣接する2館が競合することで、盛岡映画界を引っ張っていく存在となります。
この後、暫くすると時代は太平洋戦争に突入します。物資不足や戦時統制から、映画や映写に必要なものは組合(戦時中は報国会)を通して、各館への配給制となるなど、映画館も苦しい時代を迎えます(註5)。戦争末期になると、用紙制限からそれまで一般に映画館が発行していた上映プログラム(週報)も各館発行を取り止めるようになります。こうした中、全国で最後までこれを発行していたのが中劇だったといいます(註6)。
戦後を迎え、高度経済成長期になると、映画館通り周辺は百貨店やオフィスビルが建ち、文字通り街の中心部となっていきます。映画館も多数の映画会社が直営館を建てるなどし、最盛期の昭和30年代後半には、映画館通りを中心に市内に15館あったといいます。中劇ももう1館、映画館通りに「中央会館」を建て、建物の一部を松竹(その後東宝)に貸し出しています。
しかし各家庭にカラーテレビが普及するようになると、市内の映画館は数を減らしていき、現在に至っては映画館通りと周辺合わせて5館14スクリーンを残すまでになりました(註7)。私も子供の頃によく行った中央会館も2012年に閉館。当時からの建物も取り壊され、跡地は駐車場となっています。
ただ、それでもこうして振り返ると映画館が街の活性化に繋がり、長い時間は要したものの当初の計画通り、映画館通りが盛岡市中心部の街並みを少なからず形成してきたのは確かなようです。今以上に魅力を放っていた映画館という存在、そして映画を愛した人々の熱狂と情熱がこの街には染み込んでいます。
(註1)
岩手毎日新聞(第5061号) , 1915年11月23日 , 岩手毎日新聞社出版部
(註2)
「北日本映画のぞき・人は様々世もさまざま」,『極光』 , 1932年12月10日 , 北日本劇場映画連盟
(註3)
現在も百貨店があるエリア周辺は「菜園」という地名が残っています。
(註4)
盛内正志著(1976)『盛岡映画今昔』 , pp.112-113 , 地方公論社
(註5)
戦時中は興行組合も「岩手県映画興行報告会」という名称に変えざるを得なかったが、これを監督する県警察部保安課の課長のことを当時中劇副支配人だった盛内正志は、ものわかりが良い人物だったと回想しており、この課長の理解あるはからいによって、実質的にはそれまで通りの興行組合としての活動ができたといいます。同時にその後就任した警察部長も「映画のわかるお役人」という印象だったと当時を振り返っています。
盛内正志著(1976)『盛岡映画今昔』 , pp.215-217 , 地方公論社
(註6)
中劇もこの後、戦争末期の昭和19年9月21日付の週報を最後に発行を取り止めます。これに際し盛内は「終刊のことば」のなかで、「全国の映画館が、1年ほどまへにこれを廃刊してからも、私は、このささやかな印刷物の持つ意義と使命を信じて、これまで、発行をつづけて参りました」と心情を綴っており、後にこれを「活字になることを許されるせいいっぱいの抗議であった」としています。
盛内正志著(1976)『盛岡映画今昔』 , pp.217-218 , 地方公論社
(註7)
映画の街盛岡 映画と歴史にふれる散策地図 ぶらり盛岡キネマップポータルサイト 「映画の街盛岡」今昔物語
http://www.odori.or.jp/cinema-street/history/
参考
盛内政志著(1976)『盛岡映画今昔』地方公論社
映画の街盛岡 映画と歴史にふれる散策地図 ぶらり盛岡キネマップポータルサイト
http://www.odori.or.jp/cinema-street/
(大矢貴之)