アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#93
2021.02

文化を継ぎ、培うということ

1 文化サロンとしての私設美術館 京都・祇園町
1)鍵善という老舗菓子店

はじめに、鍵善がどんな店か、その歩みをざっと紹介しておきたい。その歴史は長く、少なくとも江戸中期、享保年間には菓子屋だったことがわかっている。以来、祇園のまちとともに歩みをかさねてきた。本店は八坂神社のほど近くにあり、四条通に面している。風格ある店がまえだが、和菓子が飾られたウィンドウの景色など、たおやかさも併せもつ。そのほか、高台寺そばの高台寺店、祇園南側のZEN CAFEと、祇園で3店舗を営む。百貨店などへの出店はせず、店頭およびオンラインで商品を販売している。

創業地の「縄手四条上ル」から現在の場所に移ったのは、明治に入って四条通が拡張されたときだった。そのころの店のようすは、明治時代の京都ガイドブック『都の魁』に掲載されている。また、鍵善には昭和に入ってから写真も多く残る。それは鍵善のみならず、当時の京都の文化を垣間見られるものでもある。たとえば大八車にウェディングケーキを載せて、四条大橋を渡る写真などは、菓子屋が冠婚葬祭と密接であったことを物語

現在の鍵善の礎を築いたのは、昭和の初めに12代店主となった今西善造である。善造は進取の気性に富み、好奇心も旺盛で、当時の文化人や芸術家たちと交流を深めた。店先の小上がりには、夕方ともなると著名な作家や研究者などが集ったという。鍵善は最先端の文化サロンでもあった。
なかでも、善造は同世代の木工作家・黒田辰秋に惚れ込んだ。ともに20代半ば、辰秋がまだ新進の若手作家だったころに、鍵善の店内の改装を彼に任せる計画をしていたという。しかし、辰秋渾身の大飾棚2点が納品されてまもなく、善造は1942年、30代半ばの若さで急逝した戦中の不穏な時期でもあり、店はいったん閉めるに至った。鍵善の歴史のなかで、初めてのことだった。

1955年、鍵善は営業を再開する。13代の今西晴子18歳を、善造の妹である鈴木愛子がサポートしてのことだった。辰秋はもちろん、陶工・河井郎をはじめとする民藝運動のメンバーや、武者小路実篤などの文化人、そして鍵善を贔屓にしてきた客たちによって、店は再び大いに賑わった。そのうち、近所の茶屋などに配達していた「くずきり」が評判を呼び、店頭の小上がりで供するようになる。さらに、それだけでは間に合わなくなり、店の2階の一部で食べてもらうことを始めた。こうして、1970年代には鍵善といえばくずきり、と日本中から客がやってくるようになった。作家・水上勉が「くずきりは京の味の王者だと思う」と書いた名エッセイは、今でも店で読むことができる。

14代の今西知夫は1998年、本店の大改装を行った。1階の喫茶室を新しくし、店先のショウケースに辰秋の朱の結び紋様の飾り板を立て、2階に置いていた大飾棚1点を1階に下ろし、向かい合わせに置いた。それは、善造が思い描いていた置き方でもあった。

そして、10年前に店を引き継いだのが15代・今西善也さんだ。
30代半ばの若き店主は、2012年、本店から徒歩数分の場所に「ZEN CAFE」をオープンする。詳しくは4月号で取り上げるが、「現代の生活に合う和菓子」を提案し、コーヒーと和菓子を取り合わせるなど新しい試みを行っている。
それからおよそ8年後の2021年、ZEN CAFEの向かいに開いたのが「ZENBI -鍵善良房- KAGIZEN ART MUSEUM」である(以下、ZENBI)。

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大八車にケーキ

(上から)『都の魁』(1883(明治16)年に銅版画付きで紹介された /  おとな数人がかりで、大きなウェディングケーキを運ぶ (提供:ZENBI -鍵善良房- KAGIZEN ART MUSEUM)

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鍵善本店の外観。赤ののれんは一澤帆布の制作。傷んでしまった真ん中の部分は新しい布に張り替えてもらった。それだけ人の出入りが多い店でもある。昔ながらの製法を受け継ぎつつ、素材を吟味し、ていねいに菓子をつくっている