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アネモメトリ -風の手帖-

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#37
2016.01

生きやすい世界をつくるためのアート

後編 「しくみ」づくりと「ネオ民藝」運動
6)アートを通して時代をひらく ネオ民藝

ではいったい、松井さんが始めようとしている「ネオ民藝」運動とはなんだろうか。その名の通り、民藝運動を現代に置き換えるものだが、簡単にいうと、ものづくりをする人びとが共同し、ものごとが美しく循環していくしくみと場づくりだと思う。
ちなみに民藝運動とは、大正期に思想家の柳宗悦が提唱した、生活と社会のあり方を問い直す運動のこと。手仕事を中心とした生活用品を「民藝(民衆的工芸)」と名づけ、素朴で健康な「用の美」を見いだしていった。

——復興支援のなかでやってきたことは、ネオ民藝の前段階だと思います。ネオ民藝をやるためにはスキルがいるんですよ。同時にスキルを成り立たせている環境を顧みないといけないのね。電気や道具の問題などです。東北の復興支援でそれを考えるうちに、自分たちの生活の見直しにもつながっていったんですね。
例えば、一汁一菜の器プロジェクトは食と器のしくみでしょ。器と中身の関係はすごいだいじで、それを軸にした民藝活動をしたいんです。かつての民藝運動って木工、陶器、染色とか、素材や技術で分けていたでしょう。そうではなくて、生活と器をセットで語ろうと。その意味においては、柳を批判していた(北大路)魯山人に近いところもあるかな。

民藝運動は、それまでになかった美を生活のうちに見つけるとともに、生活と社会をより良いものにしようと未来を見すえた新しい動きだった。柳が日本各地を訪ね、無名の工人がつくった日用品に目を向ける行為は、手仕事の作家たちが柳の思想に賛同したことでいっそう進められた。現代にも民藝の精神は受け継がれているが、当時よしとされた家具や生活道具などは、今の生活に合わせるのは難しく、時代の隔たりを感じてしまう。

——民藝運動のひとたちはハイカラで、近代主義の先頭に立っていたでしょう。(彫刻家の)ロダンを紹介したのも、(柳が関わっていた)白樺派です。だから、今の時代にある民藝と、当時の民藝は絶対に違ったと思う。今に置き換えるなら、(D&DEPARTMENTの)ナガオカケンメイや(デザイナーの)原研哉がやってるような仕事をやってたわけですよ。めちゃくちゃ格好いい運動だったと思うの。
で、僕が民藝に可能性を感じるのは様式じゃないんですよ。例えば(大分県日田の)小鹿田(おんた)焼きがなんでいいのかといったら、共同体があって、土を自分たちで堀り、谷川の水力を使って唐臼を搗き、蹴りろくろで成形し、製材所の廃材を燃料にし、とすべてを自然エネルギーでやってるからなんです。そういうエネルギー自立型で集団的なものづくりの方法が民藝の真髄なんです。様式がどうとか、材料がどこで採れたとかじゃない。しくみなんですよ。そのしくみは陶芸に限らず、他のアートがいっしょでもつくれます。例えば日本画や洋画、さらには染織のひとたちと一緒に山や海辺を散歩し出会った土や石、植物や木の実を持って帰り、それぞれの分野に必要な精度に精製し、膠(にかわ))や油で溶いたり水に溶かして染めたり釉薬にしてかけたり、もとはひとつの自然原料がいろんなかたちで活用できる。芸術とは自然のいろんな表情を楽しむしくみです。
でも、そのものづくりの方法は何もアートに限らない。唐臼で土も搗けば小麦も搗く。パンの窯もめしの竃もあって、1960年代以前にはあった生活技術を使ったよりよく生きる術としての「アート」。そういうアートの村を僕は子どもたちも交えてインターナショナルなかたちでつくりたいと思ってるの。そこで新しいデザイン運動みたいなものをする。できると思うんですよ。世の中にはいろんなつくりたい気持ちを持ってるひとがいっぱいいる。ものづくりに占める場所とエネルギーのコストの比率は年々大きくなっていることを考えると、小規模な生産者を集約するのは理念も大切だけど、エネルギーと場所だと思う。実は、そういうものづくりに適した場所が高齢化や離村の危機に直面した状態で、日本の中山間地域に点在している。その村やまちのひとたちにその風土とのつき合い方を教わりながら、通ってくる人もいれば住み込むひとや居候もいる。そんな雑多なひとたちが集まる、壮大なものづくりの森をつくるとか、そういうところからやるわけ。

森をつくるというのは、3章で松井さんが発言したように、自然にもらってきたものを自然に返す、という考えから来ている。
こうしてみると、ネオ民藝の活動は生活とものづくりが循環していく共同体、村づくり、ということになるだろうか。

——民藝って英訳するとfolk artでしょう。folkには民衆という意味以外に家族という意味があるけど、現代はそのどちらも危ういよね。だからよりよく生きるための技術やしくみとしてartをとらえ直してみることで、新しい民衆や家族が生まれてくる可能性に賭けたいと思う。
僕らはもっと住む場所を考えてもいい。都会は都会でいいところもあるけどね。僕は美味しいパンがないと嫌だし、映画館ないのも嫌だし、でも映画館に毎日行っているわけじゃないから、月に1回映画館に通えて、週に1回美味しいパンが買えたら、ふだんはそのへんに生えてるものでもいい。そんなふうに生活に選択の余地を、選択肢を増やした方がいいと思うの。そうして豊かな生活を送ったらいいと思うの。
だからネオ民藝は、よりよく生きたいと思ってるひとたちに勇気を与える活動でないといけないし、今一番必要とされているアートの運動だと思うんですよ。

松井さんは繰り返し、「アートはより良く生きるための技術」だという。そこに求められるのは「適性な技術」だ。つくりすぎてもいけないし不出来でもいけない、ある意味「いい加減」な技術である、と。ついつくりすぎてしまったり、自分を入れすぎてしまいがちな工芸や美術の世界から余分なエネルギーを極力排除する「マイナスの情熱」が大切なのだ、と。
そこを原点として、ネオ民藝はアートを通して時代をひらくオルタナティブな活動として始まるのだろう。