2)松井さんのこれまで1
境界を越え、「政治のアート」をする
松井さんはどのように自身をつくってきたのだろうか。何を見て、誰に影響を受け、どんな体験をしてきたのだろう。
いざ話を聞いてみたら、多彩な活動と同じように、人生の振れ幅もとても大きかった。“天狗になった”できごともあれば、とんでもない事件もある。妖しいひとや場所との関わりもある。聞くほどに話は濃くなってゆくのだけれど、同時に現在に至るまでの道すじが見えてくるようでもあった。
松井さんが少年のころまで遡ると、そこにいたのは漂泊の画家・山下清と民芸の版画家・棟方志功だった。
——山下清が大好きだったの。テレビで観て感動して、次に見たのが棟方志功や。それでもう「僕はこういうひとになりたい」と思って、美術の道に進もうと決めてた。
美大(京都市立芸大)に入る前に浪人したんです。そのときに先輩から、パチンコとか悪い大人の遊びを教えられて、衝撃を受けたの。こんな楽しい世界があるんだって。境界を越える、ドキドキする感じがたまらなかったわけ。で、大学に入ったら、今までとは違う自分をつくりたいと思ってたな。そのころ読んだのが北杜夫の『船乗りクプクプの冒険』。将来これや、と思ったの。僕は大学入ってこういう人生を歩みたい、と。あと、『面白半分』という雑誌で金子光晴が連載してたのも読んでいて。変なじいさんおるな、と金子光晴の大ファンになってしまった。それから金子光晴、稲垣足穂とか、そういう世界に入っていったんです。
少年時代の松井さんは、「境界を越える」ことにつよく憧れていたのだった。知らない世界、あっちの世界。物理的な旅に、インナートリップ。
その一方、京都市立芸大の陶芸科に入ってからは、組織を動かす活動にも積極的に関わっていく。
——学園祭の実行委員長からの流れで、自治会の会長をやってたんですよ。金子光晴や稲垣足穂にはまってたりしたのに、ものすごくアンバランスな感じ。でも、政治的なことをどうアートにするかっていうのが一番面白くて。そのころ、フランスでレジスタンス活動をしてたころの芸術家や詩人、ポール・エリュアールとか、そのへんのひとたちがめちゃくちゃ格好ええなって思ってて。シュルレアリストやダダイストたちに憧れて、どうして日本の運動はそんなふうに格好よくならないのかなと思って、仮装でデモしたりしました。仮装といってもカツラかぶって、坊さんの格好して、今思えば頓珍漢なだけですが。
一番面白かったのは1979年ごろにやった“闘争”だね。「27項目の要求闘争」といって、窓ガラスをください、トイレを増やしてください、学食をもっと美味しく、とか学生のふだんの制作に関係する要求を27個かかげて、学長だった梅原猛先生の山車を先頭に、東山七条から四条河原町、京都市役所前を通って岡崎公園の京都会館の文化観光局までデモ行進したんです。常時学校に来ている学生が100名から200名ぐらいしかおらん大学やったけど、絶対300名集めなあかんとやって、200名は集まった。でも100名足りないから、15mぐらいの蛇を2匹つくったんですよ。ジャバラで伸びるやつ。それをくっつけて30mに伸ばして、いろんな山車を担いでデモしたの。で、27項目の要求をやって、シュプレヒコールの代わりにお経をあげて。それを真面目にやってたの。
でも、文化観光局の局長が面会を拒否したもんだから、山車を並木の木に結びつけて「解散!」って散ったんです。めっちゃ気持ちよかった。15mの蛇とか芸大の模型とか、大きな神輿もあったんですけど、それも全部放置して。そしたら翌年、改善されたんです。
ダサいものは嫌、格好よく楽しくやりたい。
松井さんの明快な好みと、ひとを巻き込む行動力がうかがえるエピソードだ。ちなみに、自治会の活動に当時学長だった梅原猛さんが参加するというのも面白い。大学も相当自由だったと思うが、梅原猛さんと松井さんも、型にはまらない発想で通じ合う部分があったのだろう。