3)タイルとステンドグラスが織りなす和洋折衷
京都・きんせ旅館 1
ここまで、経済都市大阪と同時代の京阪神という華やかな時代の表裏を証言するような建物を2件、タイルとひとやまちとの関わりとともに見てきた。ここからは同じ関西圏ながら、少し視点を変え、もとある伝統的な建物が近代化にともない改修されていくなか、個人的な繋がりで受け継がれていくタイルのある風景を見ていきたい。
まず紹介する建物は、言わずと知れた京都の花街、島原にある。
島原には、花街ならではの建物がある。ひとつは、「揚屋(あげや)」と呼ばれる、現在で言う料亭に近い施設で、島原でも最も有名な角屋がそれに当たる。もうひとつは、遊女を抱える「置屋(おきや)」と呼ばれる建物で、同様に名の知れたから輪違屋がいまも営業を続けている。「揚屋」は、単なる宴会場というよりも、高い教養を持った上級遊女である太夫のもとに公卿、高級武家、豪商などが出入りする高級な社交場にもなっていた。角屋も輪違屋も300年以上の歴史がある。
そんな島原で「揚屋」として建てられたのが、築200年以上のきんせ旅館である。1700年代初頭とされる島原の最盛期は過ぎたものの、1800年頃にもまだまだ多くのひとで賑わっていたのだろう。
きんせ旅館は揚屋としての役割を終えた後に旅館となり、6年ほど前からカフェとして、2年前から旅館としても営業されている。運営するのは、オーナーの安達浩二郎さんとパートナーのシャナシーさん。30代の若いご夫婦だ。
風格のある和風の外観の建物を一歩入ると、足元に細かなモザイクタイルによる模様、その先の床面にも泰山タイルを思わせる窯変タイルが目に飛び込んでくる。繊細なステンドグラスと相まって、こうしたタイルは外観からは想像もつかない独特な洋風の空間をつくっている。
曽祖母の代からこの建物を所有する現オーナーの安達さんに、きんせ旅館「再開」までの経緯を聞いた。
——実は僕自身は京都出身ではないんです。ここも子どもの頃夏休みに帰ってくる「おばあちゃんの家」という感じで、この建物があるのが普通でした。子どもの頃の印象では、家も広くて暗いので怖かったですね。
安達さんが中学2年のときにはもう旅館としての営業が終わっていたきんせ旅館。1960年代に実測された図面に残る建物の大きさは、いまよりも1.5倍ほど大きい。営業終了と共に一部を解体して駐車場をつくったようだが、200年以上前に建てられたこの建物。実は揚屋から旅館に変わるタイミングでも改修がなされている。豪華絢爛なステンドグラスや色とりどりのタイルなど西洋的な設えがされたのもその時だろう。
——僕の曾祖母がここを買い取って、大正後期から昭和初期の頃、揚屋のつくりから旅館にしたそうで、洋風のつくりはその時のものです。曽祖母の父と弟が棟梁だったんです。祖母からの話によると、ここで外国人から社交ダンスを習ったり、終戦当時は珍しかったテレビが一台置かれて皆で観たりしたそうです。近所の年配の方々から、昔、子どもの頃にここで習字を教わったとも聞きましたね。
1977年生まれの安達さんにとって、花街としての島原の賑わいは歴史のなかの出来事だっただろう。「もっといろいろ聞いておけばよかった」と悔やむ彼が島原に引っ越して来たのは現在から15年程前。その後アメリカに渡り2年間を過ごした。シャナシーさんと出会ったのもこの頃。オレゴン州出身の彼女が初めてきんせ旅館を見た時の感想は「すごいと思いましたが、物珍しさという感じで本当の価値は分からなかった」とのこと。
安達さんにとってきんせ旅館を再認識させたものは、実はこの時の経験やひととのつながりだった。
——アメリカ時代の友だちがこの建物を見て「すごい!」って。東京から来た友だちが遊びに来た時の反応を見ても、改めてこの家の価値を認識させられましたね。それまではこの家壊したくないな、修復しなきゃなってくらいにしか思ってなかったんです。
きんせ旅館再開のきっかけは、友人から依頼されてきんせ旅館を会場に音楽ライブを開催した時だった。そのときの経験が背中を押し、「修復しなきゃな」という漠然とした思いが、「営業許可をとって、コンサートをやりたい時にやれるようなお店にしたい」という具体的な目標に変わった。カフェバーとしてきんせ旅館が生まれ変わる背景にはこうした思いの変化があった。