2)リサイクルタイルと、計算されつくした模様タイルと
兵庫・武庫川女子大学甲子園会館
リゾートホテルとして関西の社交人、政財界人、軍人、皇室関係者を受け入れた甲子園ホテルは、帝国ホテルの総支配人だった林愛作を支配人に、そして帝国ホテルの設計者フランク・ロイド・ライトの弟子である遠藤新*によって設計された。知多半島の土を使い、帝国ホテルの外装タイルを製造したことが愛知県は常滑でいまのINAXが創業するきっかけになったが、林と遠藤を引きあわせたのも帝国ホテルだった。
日本で最初に和洋折衷の客室ができたのもこのホテルだ。従業員の給料が月8円の時代に、一泊の宿泊費が15円から18円。庶民にとっては高嶺の花。そんな甲子園ホテルも戦中1944年に海軍病院として収用。戦後、米進駐軍の将校宿舎とクラブに使用。米軍引き上げ後には大蔵省の管理下になるなど時代に翻弄され、1965年に武庫川学院が国から甲子園会館を譲り受ける形となった。教育施設として再生するための建物内外や庭の大修復工事は1990年に終わり、現在では武庫川女子大学建築学科生のキャンパスや生涯学習の場として使われている。
今回、甲子園会館内部を案内してくれたのは、吉村福徳さん。まさにこの建物を施工した建設会社に43年間勤め、退職後の現在、甲子園会館を管理する立場に就いている。「ここに施された工夫の数々に魅了された。この建物については何時間でも語れますよ」と語る吉村さんは、この甲子園会館をこよなく愛するひとりだ。
案内してもらうなかでもひときわ鮮やかな印象を与えるのは、現在はアートショップになっている元バー。一見すると、京都泰山製陶所の窯変タイルが整然と敷き詰められているように見えるのだが……
——「TAIZAN」だったり、◯に「泰」と書いてあるタイルがあるんですが、ここはいくつかのタイルを裏返して使っているんですね。これらのタイルは実は試し焼きのテストピースなんです。1枚のタイルを4分割して釉薬の塗り方を試験していたり、いわゆるリサイクルなんです。
少し欠けたようにも見える布目タイルや窯変タイルがところ狭しと並べられ、砕いたタイルによって甲子園ホテル完成の年「1930」と描かれているのも見える。この部屋には後年の改修によって新たに焼かれたタイルが同じように敷かれている部分もあるのだが、むしろその対比によって、リサイクルされたタイルの転用でしか得られない独特の雰囲気が伝わってくる。光量も落とされていただろう酒場のフロアにこうした遊び心と実験を繰り返す開発精神が埋め込まれているところが印象的だが、いったい何人の客人がこの工夫に気づいたのだろう。
他にも、外壁に使われた模様タイルはサイズが計算されており、吉村さん曰く「半端がどこにもないんです」とのこと。泰山製陶所による陶製の屋根飾りが綺麗な緑の瓦屋根を見ながら、「もしかしたらここの屋根の瓦は学生が焼いたものかも」と言う。地下がアトリエになっており、授業の実習の一環で建築学科の1年生は瓦をつくるのだそうだ。メンテナンスをしようにも、材料そのものが入手困難な状況のなか、こうしたかたちで建物に新たな生が吹き込まれていくことも重要な取り組みだと感じる。
——以前は本当に知るひとぞ知る建築で、一部のひとしか来なかったんです。今は年間で外部見学者3,000人程が訪れるようになって、武庫川女子大学の1年生も全員が見学します。学校にいるときはなんとなく過ごしていたこの建物の価値に後々気づいて、卒業後に再訪してくれる学生もいますね。
かつてダイニングとして華やかな食事の場を提供した空間もいまでは学生たちの製図室。入学したての建築学生は、まさにこの甲子園会館のパースを描く課題があるそうだ。また、建築学科1年生のキャンパスとしてだけでなく、常設の生涯学習機関であるオープンカレッジや生活美学研究所という武庫川女子大学の附置研究所などで利用されており、より広く社会に開かれた使われ方をしている。教育を重視していた遠藤にとって、こうした建物の使い方は何よりも嬉しいことなのではないだろうか。
——遠藤さんは「良い教育に必要なのは、良い先生だけではなく、いい環境も必要だ」という思いがあったようで、終戦後いくつかの教育施設を設計しているんです。甲子園ホテルは時代とともに所有者も代わり転用もされてきましたが、最終的に教育施設となって、今では学生たちがこの校舎で建築を学んでいる。遠藤さんも喜んでいるんじゃないですかね。
と吉村さんは笑う。かつて紳士淑女の歓談が響いたであろうホテルの記憶は、建築を学び思索にふける学生たちの学び舎に受け継がれている。