1)往年の華やかな空気をいまに残すタイルタペストリー
大阪・綿業会館
大阪本町。明治維新以降、近代産業のなかでも、いわゆる「いとへん」産業と呼ばれる繊維産業の台頭は著しく、かつて繊維街として商家が多かったエリアに1931年に生まれたのが綿業会館だ。1933年にはイギリスを抜いて綿製品の輸出で世界第1位となる大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれた。そんな経済華やかな時代において、会員制のビジネス倶楽部として1928年に発足した日本綿業倶楽部と、その倶楽部が管理・運営する綿業会館の成立は、産業関係者や国内外の要人が交流する場の必要性を背景にしたものだったのだろう。
綿業会館の建設は、かつて東洋紡績株式会社(現東洋紡株式会社)専務取締役であった岡常夫氏の「日本綿業の進歩発展をはかるため」という遺言により、遺族から送られた寄付100万円と繊維産業関係者らの寄付50万円を加えた150万円という資金によっている。現在で言えば約75億円が費やされたその建設費用は、同時期大阪市民の寄付によって再現された大阪城天守閣の3倍以上の建設費だった。
最盛期には会員約2,000人に利用されていた綿業会館。室内に入れば、外観からは想像もつかないほど部屋ごとに異なった様式を持つ特徴的な設計。設計者は渡邊節(*1)と村野藤吾(*2)。竣工当時の1931年、渡邊は47歳、村野は40歳。建築業界ではまだ若手の部類と言われる年齢だった。渡邊によるダイビル、村野によるそごう大阪店など少なくない大阪の「レトロビル」と呼ばれる近代建築がこのふたりによって設計されている。
——去年はイタリア人の建築史研究者さんが来られて、イタリアルネッサンス調でまとめた玄関ホールを見ながらなぜ当時こんな忠実に再現できたのか、と驚かれていましたよ。
一例として、こう語るのは日本綿業倶楽部の事務局長、槙島昭彦さん。部屋によって異なる様式の設計は、各国から訪れる来賓や会員の好みに応じて好きな部屋で楽しんでもらいたいという渡邊の思いが背景にあると語る。
さまざまなしつらえを持った部屋のなかでもとりわけ目を引くのは、イギリス・ルネッサンス初期のジャコビアン・スタイルでつくられた談話室。その一角には「タイルタペストリー」と呼ばれるタイル壁面がそびえている。使われているのは、泰山製陶所でつくられたタイル約1,000枚。京都の泉涌寺付近の窯で焼かれたと言われている。驚くのは、ここに使われている浮き彫りタイルは、わずか5種類しかないということだ。しかしながら釉薬のかけ方や焼き方で変化をつけることで、多彩でありかつ妖艶な表情を見せてくれる。
ちなみに、これからめぐる5つの建物には、すべて泰山製陶所で焼かれた「泰山タイル」が使われている。
泰山製陶所は、1917年に京都南区東九条大石橋通り高瀬の場所で設立した(のちに瀬戸へ移転)。創業者の池田泰山(本名:泰一、1891-1950)は尾張知多郡草木村(現在の愛知県阿久比町)出身で、1909年に単身京都に出て陶業を志し京都市陶磁器試験場の伝習生として窯業を学び、その後、愛知県常滑でタイルや西洋瓦を製造していた建材用の常滑陶器の草分け的存在である陶工、久田吉之助(1877-1918)の元で技術を習得した。泰山製陶所は、日本の近代化のなかで花瓶などの日用工芸品からシフトするように、単に工業製品としての利便性だけにとどまらない、いわば「美術工芸品」としての側面から、建築用の装飾タイルをつくるようになる。布の織り目のような「布目タイル」や、まさに綿業会館タイルタペストリーに使われたような、焼成中の釉薬変化を生かした「窯変タイル」が特徴的だ。泰山製陶所でつくられたタイルは「泰山タイル」と呼ばれ、東京目黒の旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)、上野の東京帝室博物館(現東京国立博物館)、京都の下村正太郎氏邸(現大丸ビィラ)や神戸女学院など、日本の近代建築史上の名建築たちにも使われた。一方で、単に高級な美術タイルというわけではなく、後ほど詳述するが、広く庶民が利用する商店や一般家屋にまで、泰山タイルは製陶所のある京都を中心に幅広く取り入れられたのだ。このような泰山タイルの需要は、日本の暮らしの近代化のさまざまな場面で求められ使われてきたタイルの状況を端的に示していると言えるだろう。
話を綿業会館のタイルタペストリーに戻そう。
そんな泰山タイルを約1,000枚も焼き上げるのにどれほどの工程や努力があったのかは推し量る他ないが、晩年の渡邊はこう述懐している。
タイルなどは京都の泰山という店が精魂を込めて焼いてくれたものを使い、一枚一枚全体のコンビネーションを考え助手を使わずに私一人でこつこつと仕上げた。これも庄司さんが私の案を受け入れて下さったためで、ドイツの技師が来て、こんな立派なものが日本で出来るのかと一驚したほどである。
ー渡邊節「綿業会館の設計と私」より
渡邊自身が「助手も使わず私一人でこつこつと仕上げた」その胸中では、タイルの一枚一枚に釉薬を工夫しながら塗り、精魂込めて焼いてくれた陶工たちへの感謝と、工業製品でもあり美術工芸品でもあるタイルの特異性を味わっていたのかもしれない。それにしても、タイルタペストリーのみならず、よくこのような大胆かつ贅を尽くした装飾の数々が許されたものだ。
渡邊は「綿業会館が立派に早く竣工したのは、全く庄司さんの理解のおかげ」と述懐している。この「庄司さん」というのは、綿業会館本館建築時に建築委員を務めた庄司乙吉氏で、後に日米綿業会談の日本側代表や大日本紡績連合会会長などを務めた実業家だ。
このように、タイルタペストリーをはじめ今も栄華を伝える綿業会館の豪華絢爛な装飾の数々は、職人や設計者の技術もさることながら、庄司氏はじめ施主である日本綿業倶楽部の、大阪の産業ないしは文化を牽引していく意気込みと、若き設計者を信頼する度量の深さあってこその賜物であったと言えるだろう。
そんなタイルタペストリーの傍に置かれた写真には、リットン調査団が完成間もないこの談話室を使用している1932年の様子が映されている。資料を見返しながら「大阪の綿業界を中心にした財界人たちがここに招いて会議をし、会議の雰囲気がよかったと非常に喜んでいたそうです」と槙島さんは語るが、まさに綿業会館が当時いかに利用されていたのかを語るようでもある。
80年もの時代を超え、現在でも撮影の背景やドラマの舞台として、唯一無二の空間はさまざまな場面に使われている。また、結婚式や披露宴の会場としても人気が高く、ほぼ毎月、式の予約が入る。新郎新婦の写真撮影には、あのタイルタペストリーのある談話室が選ばれることが多いようだ。毎月1回2部制で行われる見学会では「最近では35名の定員は常に満員になり、古い建物への注目を感じています」と案内役である日本綿業倶楽部の品川和三さんは語る。
「いとへん」業界からスタートし、いまでは幅広い産業の会員制倶楽部としての役割を維持しつつ、大阪のまちが経済によって発展してきた象徴として、広く市民に公開していく、そんな日本綿業倶楽部の「守りつつも開いていく」誇りと努力あってこそ、80年以上を経てなお当時の輝きを保ち続ける綿業会館があると言えよう。