アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#33
2015.09

状況をデザインし、好循環を生みだす

後編 有田焼とまちの400年をひらく2016/ project
2)思いきった発想の転換 1616/ arita japan

400年の歴史のなかで、ひとつのピークは17世紀から18世紀にかけてだろう。このころの有田焼の展開は華々しかった。日本各地に有田焼が流通し、ヨーロッパなどに向けても、オランダ東インド会社を通してさかんに輸出もされた。さまざまな技法を生み出しながら、ヨーロッパ人の趣味に合う製品をつくりあげ、名実ともに「世界の有田」となったのである。有田焼には白磁や青磁、染付をはじめ、さまざまな種類があるが、代名詞となったのは豪華絢爛な色絵付けで知られる金襴手様式だ。きらびやかな有田焼のイメージはこのころに定着したのだった。
しかし、「世界の有田」はそう長くは続かなかった。18世紀半ばにオランダ東インド会社への輸出が停止になると、もっぱら国内向けに生産されるようになったのだった。
時代が下がって戦後には業務用食器で成長したが、バブルのころには色絵の豪華な器が飛ぶように売れた。主に料亭などが顧客だった。売上は全体で250億ほどあったそうだが、バブルがはじけて状況は一転する。数年前に1616/ arita japan を手がけるために柳原さんが有田を訪れるころには、有田焼は危機的な状況にあった。

——百田さんをはじめ、みなさんにいろいろ話を聞いたのですが、バブルがはじけた後は、料亭からの注文がどんどんなくなってしまったんですね。今現在、有田の売上は43億ほどで、バブル最盛期の6分の1くらいまで落ちました。しかも、料亭の需要はなくなるいっぽうです。
6分の1をみんなで取り合いするわけですから、つくり手の窯元同士、それを扱う商社同士もライバルという感じだったりするんですよ。

料亭の需要がなくなった他にも、有田焼の商品が現代の生活に合わなくなっていたことも、売上が低迷した要因のひとつだろう。品質に優れた手仕事であったとしても、椅子とテーブルでパスタやサラダを食べる生活に、色絵の装飾的な器は合わせづらい。
そんななか、状況を客観的にとらえ、発想を大きく転換しようとしたのが百田陶園の百田さんだった。新しいマーケットを見つけ、今の時代の需要に合ったものづくりに取り組もうとしたのである。それが柳原さんの手がけた1616/ arita japan の始まりだった。

——百田さんが「小さなまちのなかで争っていてもだめ。新しいチャレンジをしていかないと」と考えて、僕に声をかけてくたんですね。で、百田さんと「世界のひとたちが使えるブランド」を目指したんです。

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1616/ arita japan のTY“スタンダード”シリーズ(上)とSB“カラーポーセリン”シリーズ(下)

1616/ arita japan のTY“スタンダード”シリーズ(上)とSB“カラーポーセリン”シリーズ(下)

あらためて、有田焼の特徴を挙げておこう。先に書いたように、色絵から染付、白磁、青磁まで種類豊富で、絵付や吹き付けなど、高度な技術を駆使していることがひとつ。それから、焼き方がしっかりしていること。しっかり焼き締めるから、強度がある。さらには釉薬のクオリティが高く、侘び寂びのニュアンスがより出やすい。つまり、磁器としての質がよく、長い歴史で培われた技術もとても高いのだ。
1616/ arita japan での経緯は前編で詳しく紹介しているので繰り返さないが、かつて「世界の有田」だったことを頭に置き、有田の技術力を集結して、百田陶園の新ブランドを世界で発信したのだった。百田さんの社運を賭けた挑戦を、柳原さんはぶれない軸をもってディレクションし、成功に導いた。
その取り組みと成果が、有田焼400年の節目となる事業を構想していた行政の目にとまった。百田陶園の再生は、県が力を注ぐ、有田焼全体の大型再生プロジェクトへとつながったのである。百田さんも柳原さんも、まったく思いもよらない展開だった。

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伊万里にある畑萬陶苑の繊細な絵付け。伊万里からもプロジェクトに参加している / 十社、川副青山の作業光景

伊万里にある畑萬陶苑の繊細な絵付け。伊万里からもプロジェクトに参加している / 十社、川副青山の作業光景