2)服をからかわれ、反動でファッション好きになる
ファッションデザイナーがデュオでブランドを手がけている例はいくつもある。ただ、息子と母親というブランドは、世界を見渡しても思い当たらない。そのうえ、千明さんは洋裁のプロでも、絵を勉強したこともない、ごくふつうの主婦なのだ。なぜ、亮太さんは千明さんといっしょにブランドをやろうと思うに至ったのだろうか。その背景が知りたい、と言ったら「じゃ、幼少期の体験から」と、亮太さんが話し始めた。
亮太さんの記憶によれば、村上家は“野暮ったい”家だった。家のなかには、千明さんのつくった手芸小物が溢れていたという。
——謎の手づくりのものがいろいろありましたね。今にして思えばですけど、各部屋の入り口にオリジナルキャラクターっていうか、人形みたいなものがかかってたりして。
家自体が野暮ったかったですね。ファッションもわかりません、みたいな。僕のファッションもダサい感じで、母親の手編みのセーターとか着せられてました。よく憶えているのはアップリケ。破れたズボンや靴下にアップリケをつけるんですけど、それがもうダサくてダサくて。世間にはOKなアップリケもあったんですよ、売ってるものとか。なのにアップリケ自体がハンドメイド。ジーパンの膝小僧に大きなウサギをつけたり、そんな感じで。そもそも土台になる服、買ってくる服もセンスがズレてたんです。母は僕をかわいくしたい願望があったようで、女の子みたいな服や靴が多くて、色なんかも派手で。僕は同級生みたいに、プーマとか着たかったんですけどね(笑)。プーマのセットアップとかいいなあと思ってましたよ。
亮太さんは現在26才だから、今の話は1990年代半ばのことになる。手づくりのアップリケのようなものは、そのひと昔前であればごくふつうだったと思うが、この時代に手編みのセーターやハンドメイドのアップリケは確かに珍しかっただろうし、学校では浮いてしまったかもしれない。
なかでも、亮太さんの強烈な記憶として残っているのは、膝小僧の大きなウサギのアップリケだ。もの自体はもうないが、子ども心に「わけがわからない」という思いが刻まれたのだった。
趣味を反映した、オカンの手づくり服や手づくりのもの。「今どき」感とは対極にある、独特な服装はどうかと思うときはあったものの、特に抵抗はなかった。しかし、転校先で注目の的となってしまう。
——そのころは身につけるものをそれほど気にしないタイプで、母のアップリケがついたのとか、手編みのセーターとか、ワンポイント刺繍みたいなのをつくったやつがついてたりだとか、そういうものを着て学校に行ってましたが、小学校3年生のときに転校して、そこで服装のことを言われるようになって。「何それ?」みたいな感じでけっこういじられたんですね。それで、しまいには不登校になってしまいました。4月から行けなくなって、年が変わるくらいまで行けなかったと思うんですけど。
でも、なんで不登校になったかは、悪いなあと思ってなかなか言えなかったですね。
薄々わかってはいたが、オカンの趣味はやはり特殊で、まわりと服装が違うことをはっきりと自覚させられたのだった。
——母親は不登校の理由を知ると「じゃあ買ってきたのを着たらええんやろ!」って軽く半ギレみたいになっていて。たぶんちょっと傷ついたんでしょうね。そういうそぶりは見せなかったですけど。近くのサティでばーっと服を買ってきて、「これ着て学校に行きなさい!」みたいな感じで。またその服がダサいっていうのが厄介なところなんですけど(笑)。
そこからですね、母親が買ってくるものを着るんじゃなくて、自分で選ぶようになったんです。クラスのオシャレっ子の真似するところから始まって、自分はもっとこんなのがいいんじゃないかと思ったら、それを着て。そしたら、クラスの子に「どこで買ったの?」って聞かれるようになったりして。そうやってファッションが好きになっていったんですね。
服のことでからかわれ、不登校になるという体験を通して、亮太少年は「着ることの自我」に目覚めたのだった。