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アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#30
2015.06

「一点もの的手づくり」の今

前編 行司千絵さんの服と手芸
8)「おうちのごはん」のような服を展示する

行司さんの服づくりは口づてに評判となり、ついにはギャラリーから声がかかるようになった。
2013年4月には「nowaki」(京都)で「encore home made」展が、2014年6月には「フォイル・ギャラリー」(京都)で「おうちのふく」展など、2年続けて展覧会が全部で7回開かれた。ともに、行司さんや美知子さん、そして友人知人の着てきた服の展示が主だった。
筆者はそのうち、「nowaki」と「フォイル・ギャラリー」の展覧会を見ている。服は着るひとになじんで、着るひとのものになる。ともに、そのことを強く感じさせる展覧会だった。そこに作り手である行司さんはたしかにいるけれど、着るひとの手に渡ってからの年月が服を育ててきたことがひしひしと伝わってきた。

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「おうちのふく」展(フォイル・ギャラリー)の展示光景。着るひとになじんだ服たちが会場にディスプレイされた。一番下の写真は、作家いしいしんじさんと息子のひとひくんのサルエルパンツ

「おうちのふく」展(フォイル・ギャラリー)の展示光景。着るひとになじんだ服たちが会場にディスプレイされた。一番下の写真は、作家いしいしんじさんと息子のひとひくんのサルエルパンツ

——フォイルの展示のときは、服から匂いがしてたんですよ。くさいとかじゃなくて、わたしが知ってる着ているひとの匂いですね。他にも、何度も着てもらった結果、いいのかなというくらいぼろぼろになって、よれよれになってる服もありましたし。そういう変化が面白いんですよね。
このときはほぼ全員分、つくった服を集められるだけ集めました。あらためて見てみると、たしかに自分でつくったという記憶は、頭や手に残ってるんですけど、わたしの服という感じはしなかった。〇〇さんの服や××さんの服、というふうにしか見えない。母の服を見てもそれは母の服でしかないし、わたしの服とは思わないんです。自分の服の展示は、わたしの服と思いますけど。

行司さんはつくった服にタグをつけない。つくり手のしるしを残さないのだ。つくり終えて手放したら、受け取るひとに委ねる。受け手になじんでいってもらえたら、それが本望と思っている。つくってほしいという気持ちに応えて、つくることに満足しても、自分の作家性をアピールする気はない。

——自分は「黒子」ですから。作家なんかじゃないですから、余計なデザインというか、つくり手の自己主張は盛り込まんとこうと。できるだけそのひとに近くなれるように、と思っていて。
この感じはたとえば、お母さんが子どもに幼稚園バッグとかをつくるのと似てるんじゃないかな。そこにはたぶん、お母さんの作家性とかないですよね。その子の喜ぶことをしてあげよう、という気持ちかと。そんなふうに、誰に対しても、自分や母につくるのと同じ位置、同じ距離でつくってます。

この子はアンパンマンが好きやから、アンパンマンのアップリケをつけてあげよか。それと同じ発想で、受け取る相手を思いやる。そこから物語が生まれ、紡がれ、服というかたちにおさまる。だからこそ、行司さんの服はどれもふたつとして同じものはないのだ。
フォイルで展示をするにあたって、行司さんの寄せた文章がある。

おうちのごはんと同じで、家族や友人を思いながらふくを作っています。「あのひと太り気味やから砂糖へらそか」「野菜不足やから野菜たそうか」としていて、そこには作家性はないと思うのです。でも長い目でみたら、そのおうちの味がある。私もそれに似て、ふくにはタグがありません。「あのひと、ここゆったりさせよか」「あの色入れたらおもしろいかも」と思って作り続け、このような機会を得て、はじめて自分のふくを振り返り「私って、結構好みがあるんやな」と気づいた次第でした。

ごはんをつくってあげるのと同じ感覚で、よく知る「あのひと」のためにつくった服。つらつらと「あのひと」のことを考え、思いを発酵させた、物語のある服。それが行司さんの「おうちのふく」だ。

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