1)木工以前の話 過激な劇団でものをつくる
三谷さん作の年譜の最初にはこうある。(以下、年譜は原文ママ)
1952 福井市生まれ これといって特徴のない街で、これといって特徴のない少年期を過ごす
初めて「ものをつくる」ことを意識したのは、高校2年のときだったという。伝統工芸でも木工でもなく、現代美術だった。赴任してきた美術の先生が新進気鋭の現代美術作家で、ナム・ジュン・パイクなどと一緒にやっているひとだったのだ。授業で横尾忠則を取りあげたりと、とても新鮮で衝撃を受けた。
1971 芝居のポスターを作ってみないかと誘われて劇団に入る 人前に立つなど考えられなかったのに、ほんの弾みで舞台にも立つ この時同時に経験した大道具が、木に関わる始まりだった
高校を卒業後、当時の現代美術の流れである「具体」や「もの派」などを見てまわりながら、グラフィックが好きでやってみたいと漠然と思っていたところ、友人の誘いで、特に興味を持っていたわけでもない演劇に関わることになる。場所は京都であった。
入ってからは、写真を撮ってポスターや冊子をつくったり、大道具や小道具を制作したり、さまざまなことに取り組んだ。ちなみにポスターは、この後も、三谷さんの人生にたびたび登場することになる。肝心なところで、ポスターで新しい展開が始まるのだった。
——劇団にいたときは、写真を組み合わせてつくってたな。いちばん最初は『サロメ』だね。無地の風呂敷を天蚕糸で引っぱって、扇風機を当てる。そんなことをして、偶然的なかたちをつくる。その後は、石を積む「ケルン」ってあるじゃない。あれを正面に置いたりとか。物質で語っていくというか、物質の在り方、置き方が好きだと思ってやっていた。20歳前後で、自分の好みって決まっているなと思いますね。
「物質で語る」ことをポスター制作などで試みるのは楽しかったが、三谷さんが在籍していたのは、かなり過激な劇団である。「しゃべりじゃなくて、ひとに何か伝えることをしたかった」シャイな青年にとって、大きな声が飛び交う、強い表現の場に身を置き、年に一度か二度の公演に向けてほとんどの時間を費やす生活は相当無理のあるものでもあった。
そのなかでも、三谷さんはわずかな時間をみつけては、70年代京都の文化にもふれていく。所属する劇団がそうであったように、重く、過激に「本質」を求める60年代の空気に対して、70年代に出てきた、明るい「軽み」を感じるものに心地よさを感じていた。
——(京都の)蹴上に「カルコ20」という喫茶があってね。ジャズの流れるところだったけれど、他のジャズ喫茶とは違う、軽さと明るさがあった。ちょっと今のカフェっぽいというか。入り口の横にドラム缶が置いてあって、そこにさりげなく自転車が立てかけてあったりする。センスがいいんだよね。
なかに入ると、李 禹煥(リ・ウーファン)の「点より」という作品があって、73年だから制作年くらいのときに、どういう縁かわからないけど、そこに飾ってあったんだよね。それから版画家の山本容子の作品。まだ学生だった思うんだけど、「バンドエイド」という作品があって。入り口のレンガの壁には、映画の「大人はわかってくれない」のイラストのほうのポスターが貼ってあって。いろんなことが上手いんですよ。それがすごく好きだった。
「カルコ20」は、三谷さんのような若者が通う、伝説のジャズ喫茶だったらしい。大きなガラスの窓から店内のようすが見え、ギタリストのマスターとお洒落なマダムがいる。コーヒーが美味しくて、静かにジャズが流れるなかで本が読める……。「カルコ20」について調べていくと、三谷さんがすごく好きだった、というのがよくわかる気がする。
かろやかで明るくて、センスがいい。
三谷さんの好きなもの、やっていることは、ものづくりを始めた当初から変わっていない。「センスがいい」なんて言ってしまうと身もふたもないけれど、時代に左右されない洗練された感覚、とでも言い換えたらよいだろうか。過激な劇団にいたからこそ、その感覚がより響いたのかもしれない。