アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#24
2014.12

工芸と三谷龍二

前編 三谷さんのものづくり
2)ひとの暮らしの原型に立ち戻る

10代終わりから20代半ばにかけて、ポスターなどの制作を手がけながらも、違和感をおぼえる非日常的な場所にいた三谷さんは、劇団を辞めた後、さまざまな場所を転々としながら、ひとり考え続けていた。

——かなり濃い、非日常的なところから、日常に帰っていこうとしたんだね。自分にとって再出発だった。

時代は高度成長期のただなか。「もっと、もっと」とばかりに、お金もモノも大量生産、大量流通していた時代である。三谷さんはそこからも距離を置こうとした。社会の大きな流れから外れて「ひとの暮らしの原型のようなところから始めてみたい」と思っていた。
京都から福井、金沢を経由し、知り合いの紹介で中央道の茅野の工事現場へ。そのころ知り合ったひとの住む松本に少し滞在し、さらに東京へと向かう。経済活動のもっとも基本的なかたちである「露店(道売り)と行商」も経験する。そうするなかで、日々の単調な「生活」を見つめてもいた。

……劇団員というのはどこか霞を喰うような、根無し草のようなところがありましたから、辞めたとき、社会復帰するような、自分をリセットするような気持ちがあった。だからできるだけ元のところから、という気持ちが強くて、海で取れたものを町へ持っていって行商する、というような、経済活動の原型のようなところから始めていきたいと思った。そうやって自分の足下をひとつひとつ確かめながら、「ゆっくりと、ていねいに」暮らしたい。如才なく立ち居振る舞うようなことはしたくない、と思ったのでした。(三谷龍二『工芸三都物語 遠くの町と手としごと』より)

よくも悪くも、劇団での生活は三谷さんにとって大きかったのだと思う。四六時中誰かとともに、集団でひとつの目的(演劇)に向かって行動していく。そのなかでこぼれ落ちていった「何か」を、三谷さんは何年かかけて、丹念にすくいとっていたのではないだろうか。
ひとりの人間の単調な一日も、ていねいに過ごして観察すれば、ささやかな変化はある。むしろ、非日常的な緊張感のある時間よりも、気づきや発見に満ちているのかもしれない。日々の生活を送るなかで、これまで見えていなかった、見るゆとりのなかったものごとをきちんと見ながら、ひとりで立つとはどういうことか、自身の生活のリアリティから探っていった。

勤め人にはなりたくない。東京は居心地が悪くて住みたくない。
「こうしたい」というより「こうしたくない」ことはやらないようにするうち、三谷さんは声をかけられ、松本に再びやってきた。木工品の製作をし、小さな画材店を経営するひとのもとで働き、その後職業訓練校の木工科に通い、家具づくりを学んだ。

——職業訓練校に入ったときは、それを生業としてやっていこうとは思ってなかったんだよね。自分で使うもの、使いたいものは自分でつくろうという感じだった。食べていこうとかじゃなくて、ひとりの人間ができるだけ単純に生きていくことを考えたかった。
ロビンソン・クルーソーが最初に漂着したときに、椅子とテーブルをつくるんですよ。そういうのがしたかった。いちばん原初的なかたちで、人の生きて行くかたちをやりたかったんですよね。そういう意味で、ものをつくるということは、職業にするんじゃなくても、あってもいいかなと思った。

「ものをつくりたい」と思ったときに、三谷さんが辿り着いたのは、ひとの暮らしをつきつめていった根本だった。かつてふれた現代美術や劇団のような強い自己表現ではなく、大きなところに集団で向かうのでもなく、ひとが生きていくうえで、必要なもの。リアルで、もっとふつうのこと。数年をかけて、三谷さんはゆっくりと実感していった。

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工房の棚。好きなものを、並べ方を考えて置く。時々入れ替えもする