5)「伝える」ために広げる、そして選択する
三谷さんは80年代後半から四半世紀のあいだ、さまざまなかたちでクラフトフェアに関わっていくことになる。それは、自身のものづくりとフェアのありかたを行き来しながら、必要なものをつくり出し、新たに実践する時期でもあった。
フェアの最初のころは、主に宣伝美術を担当し、ポスターやDMを受け持っていた。ここで再び、劇団で手がけて以来の「ポスター」制作である。劇団にいたときは物質のありようをテーマにした抽象度の高いものをつくっていたが、クラフトフェアにおけるポスターにおいては、木製の立体作品を撮影することを考えた。第1号は、クラフトとは何か、という三谷さんの考えをあらわすものとして、ひとが自転車に乗っているオブジェであった。
‥‥‥自転車というモチーフは、僕の中のクラフトに対するイメージが入っている。そもそもクラフトというのは工業化の中で生まれてきた概念で、機械と人間がどうつながっていくか、あるいは自然と人間がどうつながっていくか、その幸福な繋がり方とはどういうものかを考えるところから始まっているから。自転車はモーターは積んでないけど、人に近い機械であるから、とてもいいクラフトのかたちに思えたんだよ。(NPO松本クラフト推進委員会『ウォーキング・ウィズ・クラフト』より)
1988 (「クラフトフェアまつもと」の)印刷物のために絵を描きはじめる。
立体作品をつくり始めた数年後、三谷さんはこんどは絵を描くようになった。興味深いのは、「オブジェをつくりたい」「絵を描きたい」と自発的に制作を始めるのではなく、必要があって新たに始めていくところである。もちろん、自身のなかにオブジェや絵をやってみたいという気持ちあってのことだけれど、ただ「表現したくて」何かを始めることはない。三谷さんはあくまで、自分の生活や活動の延長線上で考えて、何かをつくるひとだからだ。ただシンプルにそのことを続けているだけなのに、ものづくりの幅は豊かに広がってゆく。
1991 ブローチなど観光地向けの仕事に区切りをつけ、器を製作の中心にする
1996 食器に適した仕上げとしてオイルフィニッシュに加え、漆を始める。でも、漆を覚えるには苦労した
器にしてもそうである。例えば、漆の器のライン。きっかけは三谷さんが日ごろ食べている和食にあった。木肌を生かしたオイルフィニッシュ仕上げは自然でとてもよいのだけれど、緑のお浸しなどはあまり映えない。和食を盛りつけるなら、黒の漆のほうがずいぶん美味しそうに見える。漆の器のラインはこうして生まれた。
いっぽう、クラフトフェアはみるみるうちに成長していった。三谷さんたち有志で始めたものが、1987年には任意団体として松本クラフト推進協会が設立された。出展者は最初の45組から翌年はほぼ倍の85組、5年目には3倍以上の150組、そして10年目にあたる1994年は、309組が応募してくるまでになった。「あがたの森公園」がいくら大きいとはいえ、これでは芝生の広場が埋めつくされてしまう。訪れる人々がゆったりくつろいだり、作り手と会話したりする空間がなくなったら、三谷さんたちが当初考えていた素朴なフェアのありかたとは大きく違ってしまう。
話し合いの末、運営メンバーたちは出展者を選考することにした。フェアの規模に対して200組が適正と基準を定めた。来る者拒まず、という姿勢は大切にしたいけれど、出展者の層が広がって玉石混淆が進みすぎた。クオリティを保ちながら良い方向に展開できるかどうかは、主催者側がいかにこまやかにかかわり、舵取りをしていくかが大切になってくる。「出展者選考」は、フェアをできるかぎり良いかたちで続けるための手段であった。
1995 クラフトフェアの機関誌『MANO』(手)を刊行。編集長を2004年まで続ける
出展者の選考を始めた翌年、11回目の開催を前に、三谷さんは「クラフトフェアまつもと」の機関誌を発行することにした。タイトルは『MANO』。イタリア語で「手」のことで、作家5人を選んで、作家自身の言葉で長めの文章を書いてもらうという企画を考えた。目でものを見て、手でつくる作家自身の言葉を拾いたい、という三谷さんの思いからだった。
——誰かに書く手紙ではないけれど、思いが共通するひとがいるんじゃないだろうか、と。「見えない誰か」に対して投げかけるつもりでつくったんだね。
遠くに住む、同じ思いを持つひとに届けたい。思いを共有できるのは、何も近くのひとだけではないし、むしろ、遠くにいてもより近い場合もあるかもしれない。三谷さんはこのころから、思ったこと、考えたことをことばにする機会も増えていった。