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アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#23
2014.11

スローとローカル これからのファッション

後編 つくり手たちの現在
3)自分の世界がより強まる 東京を離れて生まれること
POTTO 山本哲也

POTTO(ポト)のデザイナー、山本哲也さんは2年前の2012年、家族とともに岡山に居を移した。岡山駅から電車で20分ほどの備中高松にアトリエ兼ショップ兼住まいを構えている。
POTTOはハンドメイド服づくりのブランドだ。ほとんどが一点物で、ぬいぐるみの型紙で服をつくったり、フリルで名前を書いたりするユニークなデザインが話題になった。山本さん自身がすべての制作を手がける小規模ブランドであり、商品は東京や大阪などのセレクトショップに卸している。前編で取りあげたパルコのミツカルストアでも取り扱われ、ショップとのコラボレーション企画にも参加している。
山本さんが岡山に移住したきっかけは、東日本大震災と福島原発事故である。当時都内に住み、恵比寿に店を構えていた山本さんは、子どもが生まれて郊外に引越を考えていたところに災害が起こり、いっそ地方に移住しようと決意する。京都、福岡、熊本などで探したが見つからず、たまたま紹介された岡山の物件がとても良い条件だったので、まったく知らない場所だったがやってきた。岡山の児島はデニムの産地として知られているが、それが要因ではない。決め手は広さと安さ。アトリエとショップをつくりたいとかねがね希望していて、もとは陶芸家が使っていたという広い空き家を半年かけて改修した。
ショップスペースは恵比寿の店をやっていたときの倍ほどの広さで、山本さんのつくる服や小物だけでなく、本や食品、知人や友人のアクセサリーや雑貨などで埋めつくされており、ファンなら一度は訪れたい場所となっている。

山本哲也さん

山本哲也さん

MG_9160

(上)一軒家の一角にあり、目指してこなければわからない。控えめな概観にもポップで愛らしいPOTTOらしさがうかがえる(下)中央のラックはPOTTOの服、右のラックは古着。独特の世界が展開されている

(上)一軒家の一角にあり、目指してこなければわからない。控えめな概観にもポップで愛らしいPOTTOらしさがうかがえる(下)中央のラックはPOTTOの服、右のラックは古着。独特の世界が展開されている

——とにかく子どものために早く引っ越そうというのがありました。ここは借りられる期間が2年間という条件だったんですが、広さも十分、家賃もかなり安くしてもらえるというので、その2年の間に次を考えようと思って、現地も見ずに決めたんです。本当に広いし、よかったと思っています。
自分たちで時間をかけて手づくりで店をつくったんですが、岡山駅から20分という場所ですから、ここの店だけで商売をするのは厳しくて、大阪や東京に商品を卸しています。ネット販売もしているのですが、パソコンが苦手でぜんぜん更新してなくて。それに服は着てみないとわからないというのもありますし。
ただ、ここまで来られるお客さんも意外にたくさんいるんです。東京、それに大阪、四国あたりから来られる方が多い。逆に岡山からのほうが少ないですね。本当はもっと岡山の地元のひとにも来てほしいのですが、若い子たちは東京を見ているから、地元にこんな店があっても、なかなか来ようと思わないんですね。自分も若いときそうだったから、わかりますけど。

見知らぬ土地でものづくりには、どんな工夫が必要なのだろうか。地方に行くことで、クオリティやベクトルに変化はあったのだろうか。

——僕みたいに自分でつくるのだったら、どこにいても変わらないです。むしろ地方のほうがつくりやすい。ただ、素材が手に入りにくいのが問題ですね。東京にいたら日暮里に行けばさまざまな生地が買えますし、ボタンや糸などがほしければ、オカダヤもあります。地方にはそういうお店がないから、ファスナー1本買うのも大変だし、糸も種類が限られているんです。ですから、最近はまとめて東京で買ったり、ネットで取り寄せたりするようにしていますね。最近は少量でも売ってくれますから。
田舎に来ているからといって、草木染めしようとか、自然な素材だけでつくるかというと、そうは考えていないですね。作家としては、環境よりもつくったもので訴えることができたらと思っています。

山本さんは兵庫出身。東京に出て文化服装学院に通い、卒業後はフリーで服づくりを始める。90年代のインディーズが盛んだった時代だ。ラフォーレ原宿の公募ファッションショーに応募したところ採用され、本格的にブランドを立ち上げる。その後、2001年にPOTTOを設立した。
山本さんは最初から一貫して手づくりを続けている。初めは資金もなく、工場になかなか受けてもらえなかったからだ。2006年に資金提供を受けて東京コレクションに参加し、工場生産をしたこともあるが、大きなお金が動くアパレルビジネスには違和感を感じたという。
せっかく服をつくって展示会をしても、オーダーがなければ生産されることはない。工場でつくると値段も高くなる。どんどん消費のサイクルも早くなり、セールで売ることありきでものをつくることになりがちだ。できるだけそういうことをせず、きちんとしていきたい。値段も高くしたくないから、できるだけ安くする。そんなに数をつくるわけではないから、自分で手づくりする。コレクションなどに参加しなくても、自分に合ったやり方で発表すれば、届くひとには届く。
山本さんは自分の店を持ち、つくった服を置いて、直接お客さんとやりとりしたほうがいいと考えるようになり、2007年恵比寿にショップをオープンする。
ファストファッションが主流の現在だからこそ、ハンドメイドのつくり手が注目され、その個性に惹かれる人々から求められるのだろう。人間には他人とは違うものを身につけたいという欲望があるものだ。ハイドメイドには手づくりならではの個性、そしてオンリーワンの希少性がある。
岡山に来てから、山本のものづくりの世界観はさらに強固になったという。

——デザイン的には変わっていないと思いますが、自分の世界がより強まった感じはあります。東京にいると情報がたくさんありますし、受け手もたくさんいます。ちょっと変わったことでも反応があるんですね。でも、地方にはそれがないから、気持ち的には自分のものづくりやデザインをどんどん追求して、濃くなっていく感じがあります。それはそれで善し悪しだと思いますが。

山本さんが地方の、しかも不便な田舎でやっていけているのは、自分でつくりたい、自分の店で売りたいという独立独歩の姿勢が明快にあるからだろう。実際、生活するうえでも困ることは特にないという。近所から野菜をもらったり、自宅の畑で作業をするのも新しい経験だ。しかし、農業をやりたくて地方に来たわけではなく、やりたいのはあくまで服づくりだから、畑仕事にあまり時間を取られたくないという気持ちも強い。

今、彼はもっと服をつくって、ショップを充実させようとしている。また、何のつてもなくやってきたこの土地で、新たなつながりも大切にしたいとも思っている。岡山駅近くのショップを使わせてもらって、ワークショップを始めたことで、そこからファンになってくれる地元のお客さんも増えてきた。こちらに来てから知り合ったデザイナーとのコラボレーションも生まれつつある。さらに、2013年の瀬戸内国際芸術祭に作家として参加したことは、山本さんにとって大きな刺激になった。こうして、自分のやりたい方向をもっと追求していこうと考えているのだ。
ただ、このまま岡山に住み続けるかどうかはわからない。たまたま来た場所だから、岡山にこだわる理由もない、ということもある。しかし、東京に戻る気はない。地方に暮らしながら、いかに服づくりを続け、店にひとを呼べるようにするのか。それには新しいしくみや工夫が必要だ。山本さんのこれからに注目したい。

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(上)2014年夏のワンピース。水に通すと大きく縮む生地の性質を利用してつくった。アシンメトリーでシンプルなパターンが特徴(中)山本の妻である枝光理江が手がけるブランド「RERE」の花のピアスほか、「TALKY」のリメイクのコースターと陶器など、恵比寿のときから親交ある方たちのブランドのプロダクトを置く(下)サルの帽子、POTTO2008。恵比寿の店をオープンしてすぐの作品で、“絵になる服”を店内と庭に設置していたもの

(上)2014年夏のワンピース。水に通すと大きく縮む生地の性質を利用してつくった。アシンメトリーでシンプルなパターンが特徴(中)山本さんの妻である枝光理江さんが手がけるブランド「RERE」の花のピアスほか、「TALKY」のリメイクのコースターと陶器など、恵比寿のときから親交ある方たちのブランドのプロダクトを置く(下)サルの帽子、POTTO2008。恵比寿の店をオープンしてすぐの作品で、“絵になる服”を店内と庭に設置していたもの