アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#19
2014.07

場の音、音の場

後編 梅田哲也×細馬宏通対談 音とその周辺
3)音と場における「反射」と「観測」

細馬 その「カロリーの低さ」をもうちょっと掘り下げたいんだけど。それはたとえば、「意識への引っかかりにくさ」みたいな感じなのかな。「あ、これは火だ、見なくては」なんて具合にいちいち意識して言語的に解釈するんじゃなくて、意識する間もなく気がついたらもう見ちゃってる、というような。

梅田 たとえばどこかの展覧会で、展示台に茶碗とか置いてあって、ライトが当たっていて、これに触ると監視のひとに注意されてしまう、というような光景は美術館だと当たりまえのようにあるけど、それって実はすごく不自然なことですよね。本来、茶碗は食器棚にしまうものだし、ライトも当たってないし、使うときは手に取るのがふつうでしょう。だったら、この茶碗を見てほしいってときに、できるだけ不自然じゃないやりかたがないだろうか、と。

細馬 なるほどね。ひとが自分の意志でこうしようと思ってやることって、そのひとがどこにいてもできるレパートリーが強く出る。一方、ひとが無意識のうちにやってしまうこと、たとえばそばに柱があるからついつかんじゃったとか、目の前に突起があるからついじっと見ちゃったとか、そういうことは、その場所の環境に依っている。たぶん、そういう意識しにくいことのほうが、その場所の特性と強く結びついているんだよね。問題は、ふだんはそれは意識に引っかかっていないから、「場所の特性」としては浮かび上がってこないってこと。ところが梅田くんの作品はそれが浮かび上がってくる。なんでだろう?
さっき、展示物の音の話が出てきたけど、音もまた、僕らは意識を介さずに取捨選択していることが多い。鼓膜をふるわせている音のすべてが頭のなかで拾われているわけではなくて、何か意味のありそうなものだけが意識にひっかかる。ふだんの生活のなかでは、その「意味のありそうなもの」の多くは、ひとが発したり仕組んだりしてる音で、たとえば「あ、誰かがしゃべってる」「あのひとが包丁でネギを刻んでいる」というふうに前景化してくる。その一方で、環境内でひとの手を介さずに鳴っている音、たとえば木の葉ずれの音や(スイッチを入れた後に)ずうっと回り続けている換気扇の音は、後景に引いて意識されにくい。
で、梅田くんのつくる「カロリーの低い」パーツは、どうも後者の木の葉ずれや換気扇に近いようなところがあるんだけど、どういうわけか意識に引っかかってくるのよ。環境的なのにひとの気配がする、と言ってもいい。そこが不思議なんだな。こういう感じについて以前、「反射」っていうことばを梅田くんから聞いたことがあったと思うんだけど、その「反射」に即してもうちょっと教えてくれない?

梅田 音と場と言ったときに、聞こえてる音は、全部反射じゃないですか。たとえば雨だったら、地面を打つ音だったり、雨樋を流れる音だったり、車が走ってしぶきを跳ね上げる音だったり。で、雨が止んだ直後だったら、反射はまだ生きてるんですよね。屋根や木からまた雫が落ちていたり、地面は濡れたままなんでしぶきの音もあるだろうし。すると、雨は止んだけれど、雨の音を聞いているっていうこっちの認識は変わらないわけで。つまり、実体があるかどうかは重要じゃなくて、聞いているという自分の意識がすべてになるわけじゃないですか。

細馬 うんうん。

梅田 携帯の着信音なんかでも、鳴ってないのに、鳴ったと勘違いして、見てしまうときがないですか? 実際は鳴っていないんですよ。それは環境音のせいだったりとか、まあ理由はいろいろあるでしょうけど、鳴ってなかったとしても、ポケットから取り出して見てしまった地点で、それはもう鳴ってるのと同じじゃないか、と思うわけです。携帯をぱっと見る、それだけで、その音楽はもうそこにあるんじゃないかって。

細馬 うん。

梅田 だから、そういうことを拡大解釈していくと、実際に音が鳴ってるか鳴ってないかなんてどっちでもよくて、鳴っていないところに、鳴ってると思わせてしまうことにこそ、本質があると思う。あるいは見えてないものがあるように感じるとか。

細馬 うん。さっきの雨の例えで言うと、雨粒だけでは音楽は成立しないので、それが地面を叩いたりとか、雨樋や窓を叩いたり。梅田くんが言うように、雨粒が何かに「反射」する現象がどこかに入るんだよな。純粋に、ここに音楽の雨粒が充満していたとしてもさ、それは僕らにはわからないんだけど、そこに板一枚を入れると、ばーっと「反射」して鳴り出す、というような。

梅田 新しい星を発見するときに、その星そのものは見えないんだけど、近くの星の細かい揺れから引力が割り出されて、その引力のもとに星がある、とわかるようなことがあるらしくて。

細馬 重力によって光が曲がる、というやつだね。そこでは、光を観測することで見えないものがキャッチされているわけだけど、音楽にも、そういう「観測」というあり方が考えられるかもしれない。
僕らはふつう、人間とか楽器とか特別な音を発する装置によって音楽が聴こえてくると思っているけれど、むしろ、観測器や計測器のような、音楽をキャッチするものを考えてみるのは面白いね。
そういえば梅田くんの作品って異様に待つじゃない? あの面白さは「沈黙の間に聞こえた音が音楽なのです」というような禅問答とも違う。聞こえない音を聴いているというよりは、音楽をキャッチするのを待ってる感じ。
これ、さっきの携帯の音楽の話とつながるかもしれないんだけど、携帯のバイブが本当にブルブルしてるときよりも、実は鳴ってないのにポケットのなかでブルブルしてる気がするときのほうが、よりリアルに携帯のバイブ現象をキャッチしたような感じがするね。あれはなんだろう。

梅田 ジェット機が飛んでるのを見ると、音は遅れて聞こえますよね。ジェット機のある位置からは聞こえてこない。それって「音速」を意識しするひとつの体験だったりするわけですけれど、ジェット機が先に見えているから、違和感に気づくわけで。

細馬 うん。例えばここにある壁時計、止まってるんだけど、さっき時計を気にして見た時間を思い出すね。そういう意味では止まってる時計も役に立つ。

梅田 ちょっとしたメタ的な見方でもあるんですけれど、止まってる時計って、止まっている躍動感みたいな感覚じゃないですか。ふだん当たりまえのように動いているものが止まることで、よりふだんの運動性が際立って感じられる。

細馬 時計の秒針には特にその運動性を感じるね。秒針というのは不連続にカツ、カツ、と動いてるよね。カツッていう運動の時間は、止まってる時間に比べてすごく短い。だけどその止まってる秒針って、僕らが気を許したら鳴り出すという予感に満ちている。実は、僕らが見てる「運動」は、カツッと動く瞬間じゃなくて、その動く直前にもっとも濃くなってるのかもしれない。

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(2点とも)高松コンテンポラリー・アート・アニュアルVol.00……開催:2009年11月20日(金)~12月20日(日)/ 会場:高松市美術館(香川)/ 稼動壁の収納スペースや、展示ケースのなかに入ってしまえるように導線が敷かれている(photo : Akira Takahashi)