3)住民の“声”が変える “すきま”のある展示
「O才」は、正確には展示だけではない。2時間のまち歩きの後にCDを1時間聴く、というところまでが想定されている。出発点まで地図を持ち帰ると、その地図に包んでCDが渡される。賞味期限は3日間という設定。オムニバス式に、水の音、作品の立てる音、まちのフィールド録音、インタビュー、戦前の大阪の流行歌、子どもと大人の言葉ゲームなどが収められている。梅田さんのかつてのパフォーマンスの断片も収録されていたりして、空間的・時間的に、遠く、長く行ったり来たりする内容だ。
梅田 「O才」をやるにあたって、展示よりも先に、CDの内容が見えたんです。あのあたりを2時間なら2時間、ぶらぶら歩いて、家に帰ってからCDを聴くと、まちで見たものや体験したことと、そのCDの内容が何らかの関連性を帯びていて、それだけで作品になるんじゃないかと思ったんですよ。ただ、それを何の手がかりもなしにやっちゃうと、あまりにも誰も、何も持ち帰らないだろうから、何かしら手がかりを仕掛けていくというバランスも必要で、そこをつくるプロセスが展示の作業だったんですよね。地図も必要になってくるし、あるいはパフォーマンスみたいな仕込みであったりとか。
細馬 観る側にも、ある種の“構え”が要求されるようなところがあるね。これまで知らなかった場所に行って、まず「ここ何か変!」というのを嗅ぎとるアンテナが必要で、たぶんその“変”というのを受け入れる構えがあるといいんだろうね。
ふだんは無意識にやり過ごしている人や場所が、意識に引っかかってくる瞬間が「変!」って感覚なんだろうね。ただ、その「変」という感じが、誰にでも立ち上がるかというと……。
梅田 いちばん大事だなと思ったのは、日ごろ暮らしてるまちのひとじゃないと気がつかないような、小さな変化にこそ気を配ることでした。例えば会場となった空き家ひとつとっても、そこがもともと空き家だったかどうかなんて、初めて来たひとにはわからないですよね。それをわかるひとたち(まちの住人)だから、ふだんとの違いにリアクションを取ることができる。
火が燃えていた部屋がありましたが(日光北荘)、あそこの建物は、どこまで何をやっていいのかがグレーゾーンのまま、手を付け始めた場所なんですよ。手探りで作品をつくっていくので、貸してくれたひとには、どういうことをやるかという説明がうまくできなくて。床を抜いたり、壁や天井を抜いたりしながら、内心ヒヤヒヤしていたんです。
ただ、とにかく時間をかけて、ていねいにやる、ということには気をつけていて。その他の場所もそうですけれど。あそこも後は壊すだけで、この先そのまま使用することはないと聞いてはいたんですが、建物自体が目的を終えて、寿命を全うするということに気を配って、自分なりに一生懸命考えて、作業のひとつひとつを選択するわけです。
展示が始まってから、家主が実際に見に来たんですね。僕はずっとあの建物の屋根裏にいたので、「あ、来たな」とわかるわけですよ。で、ドキドキしながら待っていたら、「よくここをこんなきれいに抜いたなぁ」とか、「この土壁を、土だけを抜くというのは大変な作業なんだよ」とかなんとか、偉そうに、といったら失礼ですが、他のお客さんに向かって演説してるんですよ。この建物は自分の持ち物で、これをやるのは大変な作業でした、と一生懸命客に言ってるわけです。
細馬 ああ、あそこにもいたのか、ガイドを買って出るひとが。面白いね。
梅田 そうそう。で、その後も、友達かどうかわからないですけれど、地元のひとを連れてきて、また同じことを話すんですよ。そういうのがあると、うれしくもあるし、そこに時間をかけてよかったなと思うんですよね。
「柿本邸」という別の会場でも、展示がオープンしてしばらくすると、地元の知らないおばさんが勝手にツアーをやりだして、地図を持ったひとたちを「ハイハイ!」と集めて回るんですよ。そして、「ここに以前住んでいたひとは知り合いで、何年前に亡くなって……」としゃべるわけです。(展示場所のひとつである)地下道についても「昔は反対側まで筒抜けで、わたしが子どものころは通り抜けしていたんやけど、風呂屋ができて……」などと解説して回る。「柿本邸」の隣にあった空き家は、ボロボロに腐って、屋根も床も落ちてしまっていて、一見すると、すごくネガティブにも見えてしまう。でも、どういうふうに扱うかを考えたときに、やっぱり手を加えず、あのままの状態で見てほしいわけです。そこで重要になってくるのが、まずは地元の住民がその場所をどう捉えるか、ということで。あそこに住んでいるひとたちが、他所から来たひとに見られたくない、と思ってしまったとしたら、それはやはり観客にとっていいものには見えませんよね。どこに、どう観客の視線を持っていくかで、あのままの状態を、ポジティブなものとして扱えないだろうかと。
細馬 ふつう、「アーティスト・イン・レジデンス」のように、その場所に滞在して制作する場合は、コンセプトをしっかり立てて、俺はこういうつもりでやっているんだとか、これは壊すなとか、そういう強い感じがあると思うんだけど、梅田くんの場合は、ものすごく「すきま」があるよね。単に展示のすきまがあるだけじゃなくて、コンセプトのすきまがある。地元のひとがツアーを勝手に始めちゃうというのは、下手をすると展覧会の意味も変えてしまうくらい強いできごとだと思うんだけど、それをあえて受け入れることで、この展覧会が別の顔を持つようにもなる。でもふつうはそんなこと起こらないと思うんだよね。
梅田 あのまちやあそこに住むひとたちには、展覧会をやることとか、僕がやりたいことなんか、どうでもいい話で。極端な話、関係ないんです。ただ、誰かが他所からやって来て、何かをやろうとしているな、ということは認めてもらう。そこさえ認めてもらうことができれば、少なくともあの場所に存在できるというか、展覧会を許されるような感覚がありますよね。
細馬 美術館でも展覧会のガイドツアーはあるけれど、その場合は、絵や作品、つまり観る対象がはっきりしていて、たとえその解釈が揺らぐことがあっても、ガイドツアーをしたことで見る対象じたいが揺らいだりはしないわけだよね。
だけど「O才」の場合は、どこを観るかすらも、ガイドがつくことでまったく変わっちゃうんだよね。そういうことが起こることを込みで……いや、「込み」というのは言い過ぎかな。必ずしも起こることを予想してやったわけじゃないだろうからね。でも、たとえ起こってもそれはありだというところまでは想定されている。こういう開かれっぷりは、他の展覧会にはないんじゃないかな。