アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#13
2014.01

暮らしのなかの「うつくしいかたち」

後編 結びあい、育ちゆく芸術と手しごと
2)60年代の讃岐民具連と現代の瀬戸内生活工芸祭

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さて、話はまた2013年夏の香川、高松に戻る。わたしたちは「民具」という言葉を手がかりに、もうひとつの取材先に向かった。「讃岐民具連」という活動が、かつてこの地にあったらしい。いまや、その存在は地元でも知るひとは多くないようだが、その当事者に会いに行くことになっていた。香川の工芸の礎、もしくは近年の瀬戸国際内芸術祭等のアートの聖地化の起源ともみるべき存在なのかもしれないと期待が膨らむ。というのも、わたしはこの取材時まで知らなかったのだが、2012年秋に、「海と島をめぐるクラフトフェア」と銘打って、この高松で「瀬戸内生活工芸祭」というのが初めて開かれていたという。

(2点とも)メイン会場の玉藻公園。日本三大水城のひとつで、公園内には歴代の讃岐藩主が暮らしてきた披雲閣(大正の再建)が。クラフトのお店のほか、食や音楽を楽しめるマルシェも開かれた

(2点とも)メイン会場の玉藻公園。日本三大水城のひとつで、公園内には歴代の讃岐藩主が暮らしてきた披雲閣(大正の再建)が。クラフトのお店のほか、食や音楽を楽しめるマルシェも開かれた

生活工芸の作家5人の展示も行われた。漆の赤木明登、陶芸の内田鋼一、ガラスの辻和美は披雲閣で、陶芸の安藤雅信、木工の三谷龍二は女木島で。写真は三谷龍二の展示の一部(© shiro imahase)

生活工芸の作家5人の展示も行われた。漆の赤木明登、陶芸の内田鋼一、ガラスの辻和美は披雲閣で、陶芸の安藤雅信、木工の三谷龍二は女木島で。写真は三谷龍二の展示の一部 © shiro imahase

その総合ディレクターは、長野・松本在住の木工デザイナー、三谷龍二さん。器だけでなく、立体や平面の作品も手がけ、今最も注目される作家のひとりであり、現代の暮らしと工芸のありかたを模索し続けている。

公式ガイドブック的な『道具の足跡 生活工芸の地図をひろげて』(アノニマ・スタジオ、2012)でその概要を知る。三谷さんが寄せたエッセイに

工業化の進んだ先進国の中で、極めてまれなことだが、日本には自分たちの思う生活道具を、手仕事で自由に作る人たちがたくさんいる。また、それを支える人たち――手仕事の生活道具を暮らしの中で使用する人たちの層が厚いことも、この国の特色だろう。それは日本人が素材への繊細な感覚をもち、心をこめて隅々まで丁寧に作るクラフトマン・シップへの愛着と信頼の気持ちが強いから。それが昔から変わらず続いているのだった。

とある。工芸祭はそうした生活工芸をつくるひとと使うひとが集まって、仕事の実りをともに祝う「収穫祭」と位置付けられている。工芸関連のイベントとしては三谷さんたちが手がける松本のクラフトフェアが代表的だ。30年近い歴史があり、全国各地から出店者と来場者が集まる一大イベントだが、それに対して、もっとこぢんまりと、さらに大道芸やライヴを催すなど、祝祭性のある場をとの考えから瀬戸内生活工芸祭は始まった。もともと工芸の文化が根づいていた高松の風土にも目を向けて、「讃岐民具連」を今の目線から取り上げたのである。
「連」という名がつくから、江戸時代の話かと思ってしまうけれど、「讃岐民具連」の活動は戦後、1960年代のことらしい。当事者がご存命なのだから、当然か。戦後の香川には金子正則(1907-96)という名物知事がいた。「デザイン知事」と呼ばれたように、伝統工芸や建築に造詣が深く、高校の同窓だった、地元・丸亀出身で戦前はパリ、戦後はニューヨークと海外生活経験豊かな画家・猪熊弦一郎(1902-93)に相談し、香川県庁舎の設計を当時まだ新進だった丹下健三(1913-2005)に依頼する。いまなら専門家による委員会、コンペという手続きを踏みがちだが、当時のこと、幼少期の一時を今治に暮らしたことのある丹下をいきなり指名したのだ。1958年に竣工した、鉄筋コンクリートでありつつ、日本の木造の工法を生かした建築は、20世紀のモダニズム建築の「地方化」という意味でもいまや建築史等の教科書にも取り上げられる存在となっている。そういえば、2013年の瀬戸内国際芸術祭の会期中に、丹下の生誕百周年を記念した大規模な回顧展が高松の香川県立ミュージアムで開かれ、県庁見学ツアーも行われていたことも記憶に新しい。
その新県庁のインテリア・デザインは、丹下人脈により、東京から剣持勇(1912-71)が担当した。戦前に蔵前の東京高等工芸学校を卒業し、来日していたブルーノ・タウトにも師事した、日本のデザイン界のエリート。椅子デザインのプロフェッショナルであり、「ジャパニーズ・モダン」の礎をつくった人材である。その県庁内装飾を目の当たりにして、地元でもそうした東京や海外の新しい動向を学び、自分たちも変わっていこうという意識が一部にではあれ生まれたのである。ニューヨーク経験の長い石彫作家の流政之(1923年生)が東京から高松に来て、地元でものづくりをしているひとが集まった。今であればNPO結成というところかもしれないが、当時は有志のゆるやかな寄り合いで、別段組織化されてもいなかったという。

(2点とも)香川県庁。丹下健三が設計し、猪熊源一郎、剣持勇などが関わった(© ホンマタカシ)

(2点とも)香川県庁。丹下健三が設計し、猪熊源一郎、剣持勇などが関わった © ホンマタカシ