アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#65
2018.10

生活と表現が育まれる土壌

後編 NPOアートフル・アクションの日常 東京・小金井
3)みんなの曖昧な場所

アートフル・アクションの活動は、学校を舞台にしたもののほかに、まちの風景に染み出すものとがある。2015年度から行われている「小金井と私 秘かな表現」はそのひとつだ。
これは、参加者が自分たちの暮らすまちや日々の生活を見つめ直し、その日常の延長で自分なりの“秘かな表現”を見出すことを試みたプロジェクトである。文化活動家・アーティストのアサダワタルさんをディレクターとして迎え、ワークショップや展覧会を経て、3年目には『想起の遠足』というツアープログラムにまで発展した。
サブタイトルは「このまちの“記憶”からあのまちの“記憶”を手繰り寄せる日常ツアー」。いつかの通学路や、小学5年生のお気に入りのお店を辿りながらまちを歩き、隣にいたひととことばを交わす。誰かの記憶をきっかけに忘れていた自分の記憶が思い出され、だんだんとそれらは混ざり合ってゆく。遠足をきっかけに、保育園の園長先生を自宅に招いて勉強会を開くひとが現れ、アサダさんは2018年春、関西から拠点を移し、シャトー2Fに仕事場を構えた。

アサダワタルさん

アサダワタルさん

———アートプロジェクトは小説を書くようなものだと思っているのですが、『想起の遠足』については抽象度が高くて、どうしてもあらすじを語れないんですよね。書いた、やったとしか言えない。でも、アートフル・アクションのプロジェクトは、そうしたことの積み重ねだなと思います。
小金井というまちは大文字の特徴や社会的な課題は掴みづらい、つまり土地性がそれほど強いわけではないし、たとえば「遠足」は音楽などのように既存のカテゴリーやジャンルとしての足場があるわけでもない。一緒にやっているひとたちも、普段の生活ではお子さんを介してつながっていたりして、複数の関係性があるなかでやっている。だから、日常というか、生きることそのものなんですよね。

それぞれが抱えている個人的な物語の周囲には、さまざまな社会問題が透けて見えることも実感した。普段の生活とプロジェクトでの関係性や出来事が織り重なり、影響を与え合う。アサダさんは、その状況に可能性を感じていると語る。わたしたちの日常は、本来とても複雑なものだから。
そう考えると、シャトー2Fには、活動を象徴するようにとても不思議な時間が流れている。いつも誰かしらいて、パソコンを開いて自分の仕事をしたり、お菓子を食べながらチラシの封入作業などをやっているひとがいる。ふらっと立ち寄ってはちょっと話をしていくだけのひとも。機能的にはギャラリーとシェアオフィス、ときどきカフェとなるが、「NPOの活動拠点」というよりは、何でもありの「溜まり場」のようだ。彼らのことをよく知るひとたちは、口を揃えてまるで「アジト」のようだという。シャトー2Fについて宮下さんはこう語る。

———ここに来るひとは、当たり前ですがみんな自分の生活があるし、ほかにもいろいろな活動をしているひとたちです。そういうなかで彼らの必要とこちらの必要に応じて、適当にやってきて、適当に活動に参加している。でも絶対にここは妥協できないよ、とわたしが思うところはしぶとく「なんか違うと思う」と問いかけることがあり、それに対しては、みんな「また始まったよ」って(笑)。
でもその座り心地の悪さっていうのは、わたしだけじゃなくて、それぞれがそれぞれの経験のなかで発動してくれればいいなと思っています。こうでなければならない、というのは基本的にないんですよ。だから、シャトー2Fも誰のものでもない、みんなの曖昧な場所なんです。そういう場所があるからこそ、安心してやったことがないことを試してみることができる。定款上はNPOというかたちをとっていますが、それぞれがそのときどきで自分の実験として引き取ってくれれば、自ずと動き続けていくと思っています。

活動をともにすることによって、日常のなかに普段とはちょっと異なる関係性が生まれる。困ったらふらっと手伝いにきてくれるひとがいて、活動人数はいつも曖昧。かかわる時間や報酬の考え方もひとそれぞれだ。何をやっているかわかりにくいけれど、確かに何かは起きている。その捉え難さが、アジトと呼ばれる所以なのだろう。この場所があることによって、まちのなかにある人間関係と日常は、健全に複雑さを増しているようだ。

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