2)織物のまちの“ちょっと特殊な”空き町家事情
———西陣の織物産業が衰退したから空き町家が増えた、とマスコミにはよく書かれるんですけどね、実際には少し違うんです。
そう前置きして、小針さんが「西陣の空き町家の特殊事情」を話してくれた。
———西陣では、空き町家の大家さんが「織元(おりもと)」であることが多いんです。織元とは、織り手さんに図案や糸を渡して織ってもらい、完成したらそれをを引き上げに来る、いわばメーカーですね。一方で、平安時代から厳密な区画割りによってまちづくりがなされてきた京都では、個人が勝手に住居をつくることが許されず、当然、大きな工場を建てることもできなかった。そこで、西陣の織元たちは、すでにある町家を何百軒という単位で所有し、1軒につき織機を1、2台据え付けるという方法をとりました。そして織り手さんに住居と織機を与え、ここで住み込みで織ってください、と頼んだんです。
しかし、バブル景気の崩壊や世の中の洋装化により、’90年代以降の西陣の総出荷額は激減。多くの織り手が町家を残し、西陣を去っていった。しかしそれでも、西陣の織物業は、なおも国を代表する一大産業だった。
———織元さんは郊外に工場を持って製造を続けていたので、西陣に織り手がいなくなっても、空き家のまま持っておくことができたんです。土地を手放さずに済んだ。でも、それらの町家は、あくまで「工場」という感覚。空き家になっても「住宅として貸す」という発想があまりなかったんです。ひとに貸すときれいに住んでくれない可能性もある、しかも更地にしたら固定資産税が余計にかかる。そんな事情もあり、空き家のままにしておく方が得策だったんですね。
そうして空き町家の多くは、大量の紋紙(もんがみ)(織物の柄を出すための型紙)の倉庫と化していた。小針さんが最終、入居を決めた町家も、置き去りにされた紋紙や家財道具でいっぱいだったそうだ。
———とにかくゴミがすごかったですね。2tトラック4台分は捨てましたから。屋根は穴が開いて雨漏りしてるわ、そのおかげで土間に草が生えてるわ、裏の壁はツタだらけで、ツタをはがすと壁がくっついてくるわ(笑)。とてもひとが住める状態ではなかったので、しばらく奥さんには見せられませんでした。
それでも小針さんには、町家に住みたい理由があった。ひとつには、西陣特有の町家「織屋建て」が、撮影スタジオとして理想的だったこと。織元から供給される機場(はたば)兼住居だった織屋建ては、入口から奥に向かって2、3室の部屋が並び、そのさらに奥に、織機を置くための広い吹き抜け空間がある。織物を織る際、糸の色がよく見えるよう、天窓も設けてあり、採光もばっちりだ。
———2階から見下ろして、脚立なしでかなり大きなものの物撮りができるし、1階だけでも5メートル引いて撮影ができる。こんなスタジオ、なかなかないですよ。
そしてもうひとつ、家族との暮らし方について、小針さんなりに考えていたことがあった。
———自分たちで家を直し、工夫して住む、ということを通して家族間のコミュニケーションを深めたいと思っていたんです。そしてまだ幼かった娘に、“姿までは見えずとも、気配で悲しいか嬉しいか察する”という人との距離の取り方を身につけてほしかった。それには、町家のような、仕切られているようで完全には仕切られていない空間で暮らすのがいいと思ったんです。
そんな思いを知ってか知らずか、ぼろぼろの町家と連日、悪戦苦闘している小針さんを見て、「なんか面白いことしてるヤツがおるで」と京都新聞の記者に伝えたひとがいた。近くにある織元の老舗「渡文(わたぶん)」の社長である。
———その記者さんというのが、入社1年目の若い女性でね。どうやらその子の若い感性に、町家がすてきに映ったらしいんです。しばらくすると、「職住一体」という見出しで、僕の町家について書かれた記事が京都新聞に載りました。
この一本の記事を機に、佐野さんと小針さんは、めくるめく“町家フィーバー”に巻き込まれていくことになる。