アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#6
2013.06

市と、ひとと、まちと。

前編 高知の日曜市
5)300年の重みと紆余曲折 無形の文化財として
明治時代の日曜市。場所は本町1~2丁目だった

明治時代の日曜市。場所は本町1~2丁目だった

昭和30年代の日曜市。場所は現在と同じ追手筋

昭和30年代の日曜市。場所は現在と同じ追手筋

日曜市の起こりは江戸時代までさかのぼる。
初代の土佐藩主、山内一豊が1600年に入国。高知城が築かれるとともに、城下町が生まれた。以来、城の東側を下町、西側を上町と呼ぶようになり、1690(元禄3)年に藩の法令により、下町での街路市が公認されたのである。つまり、藩の政策として、現在とほぼ同じ場所で、街路市は300年以上も続いているのだ。市はもともと、このまちの経済と深く関わってきたのである。

始まった当初、市は毎月決まった日にちに立つものだった。「市日、毎月2日・17日朝倉町、7日・22日蓮池町、12日・27日新市町、此定日先規之通、市之商売不可有相違事」という記録が残っている(『元禄大定日』(元禄3年3月制定の藩法より)。
曜日市となったのは、明治に入って太陽暦が導入されてからのこと。以来、第二次世界大戦の時期を除いて、市は毎週開かれてきた。現在の各曜日市の体制が整ったのは1926年の昭和元年。その後、日曜市の規模が最大となったのは1938年のこと。このときは高知城からひろめ市場、大橋通を結ぶ地域に2キロ以上、出店者は1,700人にも達したという。ただ、その後の道のりは決して順調ではなく、廃市の危機もあった。

ひとつには会場となる街路の問題である。車の交通量が飛躍的に増えた昭和30年代、1959年には「青空市反対運動」が起こった。道路の混雑が主な理由だったが、このときは高知市の名物であり、市民にも親しまれているからと反対は退けられた。しかし数年後、1962年にはふたたびその是非が取りざたされる。今度は警察当局の要望により、街路市を屋根付きの場所に移転するか否かという話で、移転となれば事実上の廃止を意味するものであった。
それを受け、高知市は「日曜市調査協議会」を開き、市民も参加するかたちで街路市について話し合いを重ねていった。結論として、市は心の依りどころであり、交通事情もさほど影響はなく改善の余地がある、また市民の生活にも応えているということで、街路での継続が決まったのである。

ほどなくして、昭和40年代の地方観光ブームに乗って、日曜市は大いに発展し、全国からも観光客がやってくるようになった。1970年の出店登録者数は668。現在よりもずいぶん大きく、おおいに盛り上がっていたのだろう。

行政と市民が一体となり、市の存続を決めたことは、高知市にとってとても大きな、先見の明ある選択だった。以来、市民の生活の基盤であり、大切な観光資源でもあり続けている。
2000年代に入ってからの話だそうだが、市の立つ追手筋に面したとある商店が“日曜日はうるさくて商売に支障を来す”と警察にクレームをつけたことがあった。しかし警察は「市のほうが前からあるでしょう。それをわかっていて入居されたはずです」と取り合わなかった。今や「市」は無形の文化財のような、なくてはならない存在となっているのだ。