2)どう守るかの「せめぎ合い」
地域の伝統的な習俗などを継続するには、行政に働きかける必要もある。ただし、現在の行政のありかたでは予算がつきにくいのが現状だ。
———国や地方行政も、観光化できるお祭りとかキャッチーなものは、それこそ予算がつくんですけど、そうじゃないものっていうのがどんどん視界から外されてしまっていて。むしろ、そっちの方が、文化としては大事だと思うんですが。たとえば山形県でも、インフルエンサーを呼んできて、ITやAIを使って観光につなげよう、みたいな企画には大きな予算がつくんですが、自分が大切だと思っている古い文化は検討するテーブルに辿り着くこともできない。というか、文化の担い手自身が「こんなもの何の価値もないべ」みたいなことを言ったりしているのが現実です。
坂本さんのように、祭りの重要性を訴えて熱心に動いたとしても、集客や経済効果のあるイベントや、先端分野の「強さ」の前には、その声はかき消されてしまいがちだ。
———今、若い人でもそういう古いものを大切だって考えて、興味をもってくれる人がすごく増えたなっていう印象はあります。例えば猟師などは、なる人も増えました。民藝展のような伝統的な技術と親和性のある展示にも多くの若者が訪れています。
でも、ちゃぶ台返しをするようですが、自分がどんなに大切だと思っていても、何が良くて何が悪いのかっていうのは、結局わからないですよね。
明日のこと、未来のことはわからない。歴史を振り返ってみると、未来が意図した通りになることはほとんどないと思うんです。自分がやっていることは明後日の方向に向かってやっていると思っていて、現状で世の中の人が興味を持ってくれないのは仕方ないよなと思ってしまうところもあります。だからこそ、もしもこの先、明後日方面に世の中が動いて、民衆の中で脈々と続いてきた文化が多くの人にとって必要だと感じられるようなことがあったときに、「もう何も残っていませんでした」みたいな状況にならないようにしたいんです。
若い世代の個々の動きも、時間とともに蓄積されて、それらが線で結ばれていけば、注目されることにつながるかもしれない。しかし、失われる速さを考えれば、共感する人々を増やしつつ、やりかたを更新しながら、ある程度即効性もあって、わかりやすい行動をとることも必要な場合もある。
では、具体的にどんなことが可能なのだろうか。
———派手なパフォーマンスみたいなことも苦手だし、危機感を煽ったり喜怒哀楽に訴えかけるようなこともしたくない。山の息吹に触れれば何か不思議な力でブレイクスルーが起こって幸せになれます、みたいな自己啓発じみたことは自分は好きじゃないです。そうした方が、お金や人が集まってくるのかなって思うことはあります。人に来てもらわないと、山の文化も痩せ細ってしまう部分もあるので。そのせめぎ合いがすごくある。いつも考えることです。
知られざる山の文化を見いだす。そして、そこに息づく知恵や技術を現代にもつなぐ。地道な営みを続けながら、たとえ時間がかかっても、何らかのかたちで伝わればいい。坂本さんはアート活動などを通じて、その思いを強くしてきた反面、失われつつある現状とその速さを前にして、「大きな声」の効果も考える。
その「せめぎ合い」を経て、坂本さんはある行動を取った。町の選挙に出たのだ。