1)ひっそりと「祭り」が消える
山のリサーチを続けるなかで、坂本さんが切実に感じているのが「山の文化が急速になくなりつつある」ことだ。
———このあたりでも、「モリ供養」っていう祖先を供養するお祭りがあったんですけど、コロナ禍に入って行われなくなった場所があって。コロナ禍が明けて、今年はやるかな?と思って、お祭りの日時に山に行ったら、もう荒れ果てていて。これ、なくなっちゃうんだ、と。
モリ供養は、月山のある庄内地方で広くみられる習俗だ。里近くにある木々が茂った小高い山は「モリ」と呼ばれ、死者の霊が一定期間とどまるところとされてきた。その場所に、毎年旧盆明けの時期に地元の人が花や供物などをお供えし、有縁・無縁の死者を弔うのがモリ供養である。
坂本さんは、モリ供養は福井県の「ニソの杜」という祭りと共通していると言う。ニソの杜とは、かつて民俗学者の柳田國男が「日本の神社の原型がそこにある」と言及した行事だ。
———モリという言葉は「鎮守の杜」とも通じるもので、鹿児島ではモイ、八重山ではムイという樹木が茂った聖地をあらわす言葉だと考えられます。神社や神道の古いおもかげを残す、すごく大事なものだって自分は考えていたんですけど、それがなくなってしまった。高齢者が増えて、次世代の担い手が都市部に移住することでいなくなり、お祭りを継続することができなくなって、コロナがとどめをさした。
各地の祭りを見ていくと、それをやっている人たち自身が、何でやっているのかよくわからなくなっていることが多くて。ずっとやっていたから、今年もやるけど、っていう気持ちで。だから、やらなくていい理由ができた時に、もう元の、やるっていうところまでがんばれない、というケースが少なくない。
伊勢神宮や出雲大社のような政治の中央ともかかわりがあった大きなところは誰もが大切なものであると考えると思うんですけど、民衆の中で何百年、何千年と続いてきた祭りや文化のなかにこそ重要なものがあるんだと自分は考えていて、いろいろな媒体で大切さを訴えても、その担い手の人たちには声は全然届いていないし、届いたとしても「文化で腹はふくれない」という現実を前に、受け入れられる可能性は低くて、残したいものはどんどん消えていってしまう。
祭りのような伝統的な行事は、執り行う共同体の合意があって成り立っている。理屈ではなく「やるべきもの」としてあるから、さまざまな祭りは続いてきた。そこで「なぜやるのか」と問うようになったら、合理的な答えが必要になってしまう。
———昔はお盆とかに、本当に自分の亡くなったおじいちゃんとかおばあちゃんが来ている、というような感覚もあったと思います。でも近代化されて科学の知識や、いろんな新しい物語を知ってしまうと、そこを信じきれなくなる。でもよくよく、もっと深く考えていくと、そこにすごく大事なものがあるっていうのはわかると思うんです。
生きていると大変なことがたくさんありますけど、困難に直面したとき、自然の中で生きてきた自分たちの暮らしの時間の蓄積は、自分たちが立ち返ることができる場所になるんじゃないかと思うんです。
いまの社会の合理性というのは生産と関わっていて、生産、どうやってお金を生み出すのか、どんな職業に就ているのかが、その人のアイデンティの大部分を占めている。稼ぎが大きい人は社会の中で大きな顔ができて、働かない人は肩身が狭い。たとえばミシェル・フーコーの『狂気の歴史』を読むと、正常とそうでない人たちの境界線が、生産性で区切られていることがわかります。AIなどの技術の発展によって、いま自分たちの仕事が奪われるということが盛んに議論されています。経済学者のケインズが1日3時間働くだけで生きていける社会になると述べましたが、それは裏返せば1日3時間しか働くことができなくなることでもあると思うんです。近い将来、自分たちは生産性から排除される可能性がある。職業や肩書きを奪われたら、どこにアイデンティティを求めることができるんだろうと。
現代の生活にそぐわない風習でも、それらが執り行われなくなったら、共同体のありようにも変化を及ぼすことにもつながる。そのうえ、ローカルで小さな祭りでも、文化的に重要な存在だったりするのに、なくなるときは「ただ、ひっそりと消えていく」(坂本さん)だけだ。その状況は月山のあたりにかぎらず、全国的にも生じている。