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アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#99
2021.08

未来をまなざすデザイン

4 学びを響き合わせて、新しいうねりへ
5)プロジェッタツィオーネとプロジェッティスタ
批評家、アーティスト 多木陽介さん1

最後に、城谷さんと最も長く、深く付き合ってきた多木陽介さんの話を載せたい。
多木さんはローマ在住の批評家で、アーティストでもある。以前は演劇の演出も手がけるなど、その活動の幅は広い。現在は自然や社会、精神といった次元の異なる環境において、エコロジーを進める人々を扱った研究を展開している。
1988年以来、ミラノ、ローマとイタリアに住み続けているが、1994年からはミラノで城谷さんと家をシェアしていた。基本的に多木さんが住んでいて、城谷さんは年の半分を日本、半分をイタリアという生活を送っていた。
城谷さんとルームシェアしていた当初、多木さんはデザインの世界にはかかわっていなかった。いっぽうの城谷さんも、デザイナーか芸術家か、決めあぐねていた。その城谷さんの背中を押したのは多木さんである。長崎のとある展覧会に出展し、手きびしいことを言われたらしい城谷さんに、格好つけた仕事をするより、人のためになることが好きなんだから、それをデザインしたらどうか、とアドバイスした。その後、城谷さんはデザイナーとして活動を始めるが、その仕事に多木さんも少なからず影響を受けていくことになる。
多木さんは城谷さんを「自分より立派な自慢の弟」だという。友人というより身内なのだ、と。そして、城谷さんのことは「耕生」あるいは「耕生くん」と呼ぶ。ふたりの関係性が現れていると思うので、多木さんの発言部分ではそのように記していきたい。

多木陽介さん

多木陽介さん。オンラインで話を伺った

———デザインとはかかわりのなかった僕がなぜ、カスティリオーニさんの本(『アッキーレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』)を書くことになったかというと、もともとは耕生がきっかけなんです。
『コンフォルト』という雑誌の取材で、カスティリオーニさんの事務所に行きました。98年かな。カスティリオーニさんの話をしっかり聞くのはそれが初めてでした。娘のモニカは僕の大親友なので、彼女のお父さんとして知っていたし、僕たちの展示を観にきてくれたりもしましたが、僕にとっては別の分野の方でしたから。
そのとき、カスティリオーニさんが無数のガラクタというか、いろんなオブジェをごそっと持ってきて、世にも見事なデザインの授業が始まったんです。一見、現代のデザインとは関係のないと思うようなもののなかに、ものすごい知恵がいくらでもある。それを自分は好奇心を持って、日々読み解いているんだっていう話をしてくれたんです。
耕生はそのちょっと前ぐらいから、ある大理石の会社のアートディレクターをやっていたんです。その会社のデザインをしていたのはそうそうたる先生たちで、カスティリオーニさんやマーリさんもいた。それが縁で、彼はそういう人たちと付き合うようになったんです。

カスティリオーニやマーリをはじめ、ミラノの一部デザイナーたちは、戦後、自らのやっていることを「プロジェッタツィオーネ」と称していた。

———プロジェッタツィオーネとは、日本語に訳すと「プロジェクトを考えて、実践する」という意味です。それをやっていたカスティリオーニさんやマーリさんは、自分たちのことを「プロジェッティスタ」と呼んでいました。
彼らはもともと社会的な意識や倫理がすごくあって、企業が儲けるためのデザインはしない。プロジェッタツィオーネはある意味ニュートラルで、あらゆる分野で使える言葉なんですが、60年代の後半から、デザインないしデザイナーという言葉が使われるようになってからは、イタリアでも本流が変わってしまうんです。イタリアにも強烈な消費文化が入ってきて、市場で主役になるイメージをつくるデザインがイタリアからも発信されるようになった。
でも、戦後のプロジェッティスタたちは、そんな流行を全く見なかったんです。一生、ずっと同じように仕事をしていた。耕生の場合は運良く、その流儀を一生貫いていた先生ふたりに会ったと。特にマーリさんですね。最初に会ったときは「まともに顔も見てくれなかった」って憤慨して帰ってきましたけど、でも、信頼されたんでしょう。マーリさんのいいところを耕生は直接受け継いでいる。
日本からミラノにデザインを勉強しにくる人っていっぱいいるんですけど、プロジェッタツィオーネを引き受けて、自分のものにして帰ったのは彼くらいだと思います。

プロジェッティスタとは、多木さんによれば「プロジェクトを最初から最後まで全部やる人」のこと。小浜に拠点をかまえてからの城谷さんは「プロジェッティスタ」として、見事にその軸を通していたといえる。

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城谷さんとマーリさん。海辺にあったSTUDIO SHIROTANIにて(写真提供:川浪寛朗)