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アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

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#336

不要不急とはいうけれど
― 加藤志織

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なんとか年を越し、ここにめでたく新年を迎える。旧年は新型コロナウイルス感染症によって人類が大きな打撃を受けた1年間だった。われわれが久しく忘れていたパンデミックの脅威を認識するとともに、これまで当たり前だった生活スタイルや社会のあり方が世界規模で大きく見直されることになった。今、人びとの希望が託されているのは、各国の製薬会社によって開発され、昨年末から相次いで予防接種が始まっている複数のワクチンであろう。しかし、その効果に期待しつつも日本の現状は厳しく第3波の感染拡大は止まる気配を見せていない。その結果、昨年の春から夏にかけて呼びかけられた外出の自粛や3密回避の徹底があらためて求められている。

ということで本年は帰省しないで京都の自宅にとどまることになった。近所のスーパーの営業時間は短くなるものの、コンビニが通常どおりに開いているので生活自体に支障はいっさいない。だが、正月のための準備はなかなかたいへんだ。料理や迎春用の飾りなど一通り揃えようかと考えたが、この時期に人の集まる場所に出かけるのはためらわれるために、無理をせずできる範囲内で対応することに決めた。おせち料理は本来であれば5段の重箱に詰めることが正式かもしれないが、その量を一人で食べ切ることはさすがにむりであるために今回は飛騨春慶塗の大徳寺重(蓋が付いた一重の箱)を使ってみる。艶やかで透明な赤褐色の漆から木目が見える美しい器だ。

みずから用意して自分一人で食べる料理なので器をことさらに気にする必要性はない。しかし、食とはたんに食材や料理そのものだけで成立しているわけではない。それは「食を願わば器物」という慣用句があることや「皿」という言葉が器を意味すると同時に料理そのものを示すことからも理解できよう。なにも漢字に限ったことではない。たとえば皿を表す英語のdishやイタリア語のpiattoなども同じだ。「食」とは(あるいは「食文化」というべきかもしれないが)、贅沢な美味・珍味の類をひたすら追求する浅薄な食い道楽ではなく、食べ物と風土そして人の生活とが織りなす複雑で密接な連関の総体であるからだ。

器は料理の見栄えをよくするためにだけあるのではない。それは時として調理器具の役目を果たすこともあれば、食材や食べ物を衛生的に保ち、食べやすくする役割をも担っている。漆器もそうだ。軽くて扱いやすく、耐熱性に優れ、また抗菌作用があるともいわれている。山で仕事をする杣人(そまびと)などが携行した「曲げわっぱ」は、弁当箱であり、水を飲むための容器であった。さらに、その中に水、味噌、焼いた石を入れて味噌汁をつくるために用いられることもあったと聞く。しかし、そうした扱い方を繰り返しても、日々の手入れを怠らなければ長期の使用に耐えうるのである。

コロナ禍のさなかに芸術は不要不急の烙印を押されて、その存在意義を問われることになった。芸術に関わる多くの者が、この問題に自問自答したことだろう。だが、そもそも芸術とは、洋の東西を問わず、人間が周囲の環境に働きかけてより良く生きるための術(例えば上記したような器を考案し生み出す工芸の技術、農耕の技術、土木術、医術、馬術など)を幅広く指していた。その原義に立ち戻るならば、芸術の果たす役割は困難に直面した現下の状況においても決して少なくない。むしろ芸術には多くの期待と可能性がある。

それは美術(絵画・彫刻・建築)、文芸、音楽、写真、映画なども同じである。これらは余暇を費やすための娯楽、無くてもいいがあった方が彩り豊かになるというようなものではなく、人が人として生きるために必要不可欠なものであろう。この時期に劇場版『鬼滅の刃』の観客動員数と興行収入が大きな伸びを示していることも、その証左のひとつではなかろうか。人びとがこのアニメーション作品を求める理由は一時の気晴らしではなく、それを超えた次元にあるように思われる。いずれにせよ、コロナ禍が続く世界では、社会に芸術が存在する意味と役割について否応なしに向き合い考えなければならない。芸術を一部の趣味人やエリートが享受する知的・感覚的な嗜みと考える限り、芸術は不要不急に分類されることになるからだ。最後に本年が穏やかな1年であることを願う。

画像:飛騨春慶塗の大徳寺重