アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

TOP >>  空を描く
このページをシェア Twitter facebook
#358

「意味」ってそんなに大事ですか?
― 宮 信明

IMG-4444 2

先日、20年ぶりに「北野をどり」を見た。

おそらく普通の研究者ならば、私がいま「見た」と書いたところは、「鑑賞した」もしくは「観賞した」と書くにちがいない。「鑑賞」あるいは「観賞」では、いささか大袈裟にすぎるとしても、少なくとも「観た」とは書くはずである。だが、私はそれらの言葉を慎重に避けている。なぜだろうか。それは次のような出来事があったからだ。

ご承知の通り、京都最古の花街・北野上七軒の歌舞練場で催される「北野をどり」は、祇園甲部の「都をどり」、宮川町の「京おどり」、先斗町の「鴨川をどり」と並んで、京都四大踊りの一つに数えられる。1952年(昭和27年)というから70年前北野天満宮の千五十年大萬燈祭で初演されて以来、連綿と続けられてきたこの行事も、新型コロナウイルス感染症の拡大にともない、2020年、2021年は2年連続での中止を余儀なくされた。今年、2022年は、時期を春から秋へとずらして、3年ぶりの開催となったのである。そのため、フィナーレのお馴染み「上七軒夜曲」が、いつもとは異なり、満開の桜のなかではなく、燃える紅葉のなかでの舞姿に変更されることとなった。錦繍の帯のような紅葉を背景に、黒紋付で舞うその姿の美しさは、まさに妖しいほどであった。

その美しさをひと目見るためだろうか。1011日から入国制限が大幅に緩和され、海外からの個人旅行が2年半ぶりに解禁されたこともあって、客席には外国人観光客の姿も少なくなかった。「上七軒夜曲」で幕が閉じ、「きれいだったなあ」とボーッとしながらも、席を立とうとしたところ、突然、隣に座っていた外国人の男性に「なぜ紅葉なのか?その意味は?」と尋ねられた。いくぶん戸惑いつつも、「春ではなく秋の開催になったからですよ」と説明すると、なるほどという顔をしてくれたのだが、その素朴な質問をした人がどこかへ行ってしまうと、どうもちがうな、と私は考え込んでしまったのである。この説明には、何か大事なものが抜け落ちている、と。ほんとうは、それをこそ明らかにしなければならないのに、なかなか厄介なことだからと、いかにもそれっぽい説明で、お茶を濁してしまったのである。はたして、その答えで良かったのだろうか。ほんとうは、ただ「きれいだから」と答えるべきではなかったのか(そうすると、「なぜきれいなのか」にも答えねばならず、これは相当に厄介な問題ではあるのだが)。

寄席演芸の研究を専門としている商売柄、しばしば「あの落語は、あのオチのあとはどうなるのでしょうか」といった質問をされて困ってしまうことがある。そんなときは「何もありません。あれで終わりですよ」と答えている。また、「あの落語はどういう意味なのでしょうか」と聞かれることも時折あるが、落語の説明ほど「無意味」なことはないと思いつつも、そこは教員のはしくれ、「あの落語にはこういった意味があって……」と解説することも珍しくない。或る人から、美術館で絵を見るのが好きだと父親に言ったら、「お前に絵の意味がわかるのか」と返答されて、嫌になったというエピソードを聞いたことがあるが、舞踊にせよ、落語にせよ、絵画にせよ、「意味」がわかることが、そんなにも大事なことなのだろうか。

私が足を踏み入れ、すでに長く滞在している学問・教育の世界は、本来自由なはずだったが、気がついてみると、いくつもの制約があって、自縄自縛という感じになっていることも少なくない。かつて日本の学問や教育は、その体系化のために感情や感性よりも、理性や知性を重視する時期を過ごしてきたが、その影響はいまも残っていて、感情や感性の赴くままに、「きれい」「面白い」「美しい」と言っていると、思考停止と勘違いされてしまい、それはあまり良くないこととされている。思考が停止しているのではなく、「きれい」「面白い」「美しい」を反芻していることだってあるだろうに。だとすれば、なぜ良くないのだろうか。さしたる根拠があるわけではない。ただ教育の重視からそういうことになっているだけなのだが、上七軒歌舞練場での私自身がそうだったように、ほとんどの人は、何かに対峙するたび、その意味やテーマ、メッセージを、きちんと汲み取っている。そして、学問や教育のおおかたは、相変わらずそういうものである。

もちろん、人文科学の領域において、優れた仕事に必要なのは、古臭いようだが、また迂遠なようだが、対象と向かい合い、営々とものを考えて過ごす長い長い時間のなかでしか獲得することができない「知」だろう。そんな学識が自分に備わっているとは、一ミリも思っていないが、しかし、その「知」や学識の土台となるのは、紅葉を目にして「きれい」、落語を聴いて「面白い」、絵を見て「美しい」と感じる情動や、そこから生まれる好奇心にほかならない。ナイーブすぎるのかも知れないが、そうなのだから仕方がない。

なんだか、こむずかしい話になってしまったが、結局のところ、私は隣に座った外国人男性の質問に、まずは「きれいだから」と答えるべきだったのだろう。その上で、「秋の開催になったから、桜ではなく紅葉になったんですよ」と回答すればよかったのだ。その意味やテーマ、メッセージを考える=「鑑賞」もしくは「観賞」をするまえに、何よりも大切なのは、その美しさや素晴らしさに身を委ねること=「見る」ことだったのではないだろうか。「鑑賞」や「観賞」、さらに「考察」や「研究」は、それからでも遅くはない。何年か経てば、自分のなかから、その意味やテーマ、メッセージは消えているかも知れないが、「きれい」「面白い」「美しい」と感じたときの興奮や感動は、それが自分の内部から発したものであれば、決して消えることはない。意味やテーマ、メッセージを考えるまえに、その手前で立ち止まって、そこを行ったり来たりすることこそが、じつは大切なのではないだろうか。