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アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

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#330

風に触れるアルテミシア
― 上村 博

Albrecht Dürer (1471-1528). "Saint Jérôme en pénitence, B 61". Burin, bois. Musée des Beaux-Arts de la Ville de Paris, Petit Palais.

ヒエローニュモス、ヒエローニュモス、おおヒエローニュモスよ!
お前は町を離れ、同胞を捨て、岩と砂の荒地にひとり来た。この焼き付く陽の光のもと、この乾いた砂の上で、お前は何を望むのか。ヒエローニュモス、ヒエローニュモスよ。この私は、いかにもひねくれものかもしれない。攻撃者たちからはもちろんのこと、友人や師弟との交わりを絶ち、このシリアの乾いた土地でひとり暮らすことを望んだ。人の姿はかつて目にすることなく、ただサソリや獣だけが傍らにいる。聞こえてくるものといえば、ときたまに起きる砂嵐の音と、その風に混じるライオンの唸り声だけである。水も乏しく、食べるものといっては僅かな穀物とヨモギぐらいしかない。夜は冷たく硬い大地に横たわり、昼は灼熱の太陽に照らされて過ごす。
しかし、この寂しい岩窟の暮らしのなかでも、祈りと瞑想を妨げる幻覚がくり返し現れる。そしてやせ衰え、黒く日焼けした私の肉体は欲望に駆り立てられる。体力が弱まれば、なおのこと精神が強まるはずなのに、飢えて、弱まった私の体は、まだ私の精神を苛む。聖パウルスは言った。「弱いものは草を食べよ」と。肉食は疾うに断って、この砂漠にもわずかに生えるヨモギを食べて命をつないでいたが、それでも私の精神は肉の欲を抑えることができない。
ああ、そうだ、ひょっとしてこれはヨモギのせいだろうか。ギリシャ人が女神アルテミスに因んでアルテミシアと呼ぶ、この慎ましい草のせいだろうか。淫蕩な異教の神々のなかにあって、森に住む純潔な女神、そして近づく男性を冷酷に拒むアルテミスは、かすかに自分にも親しみがある女神だった。この香り高い、しかし苦い野草の何が良くないのだろうか。ルクレーティウスは詩を蜜の甘さとヨモギの苦さとに例えたが、実にこの苦味こそが私の精神を奮い立たせてくれるものではなかったか。
しかし、聖パウルスは小アジアで彼の見たアルテミス祭の熱狂を伝えてはいないだろうか。そして、詩人たちの記す貞潔な女神の姿とは裏腹に、アルテミスには、生殖や豊穣の祈りを捧げられるという別の顔を持ってはいないだろうか。さらには、北方の蛮族がヨモギを媚薬として使うということも聞いたことがある。ヨモギの刺激は、精神よりも肉体に向かうのか。
ああ、風が吹く、風が吹く。密度の濃い、圧のある風だ。この砂漠にも風が吹く。風はいつでも軽やかとは限らない。風には圧があり、我々のからだにその重さを押し付けてくる。そもそも風は、空気の粒子の運動である。重みのある流体だ。風が吹くと、砂埃や花粉も一緒に流されてくる。まるで濃密なスープのようだ。ヨモギの花粉も、その風に乗る。アルテミスの薬草は風によって繁殖する。荒野にひとり暮らし、人との交わりを断ったように見えても、この風の流れに私も触れている。接触は避けられない。
そしてまさしく風に乗った花粉のように、さまざまな場所で、さまざまな人々が、語りあい、笑いあう。飲む、食べる、歌う、踊る、抱擁する、交接する。ヒトのみならず、動植物の多くは接し交わることで種を残し、繁殖し、群れをなして生活を営んできた。生物として他の個体と触れ合うことは宿命のようなものである。聖パウルスは言った。「男性は女性に触れないほうがよい」と。しかしそれに続けて、「淫行を避けるために男は妻を、妻は夫を持て」と言う。男女のどちらも自分の体を勝手にできるわけではなく、相手を拒んでもいけない、と。そもそも個体が先にあるということすら疑問である。昆虫や鳥類、魚類の群れが全体としてひとつの生き物のように活動しているように、人間も多くの個人が離合集散しつつ全体として棲息する。ルクレーティウスは自然の万物が互いに惹かれ合って運動しているというではないか。
そのなかで、ヒエローニュモスよ、お前はひとり生きようと言うのか。偏屈なヒエローニュモスよ、お前は孤独に苛まれ、肉欲にもがき、我が身を打擲し、救いを求めて泣き叫んで、それでもなお触れることを忌避するのか。

Noli me tangere. 私に触れるな。
救い主の生涯は触れることに満ちている。皮膚病の患者に触れて癒やし、香油を塗られ、塗り、囚われては鞭打たれ、傷つけられ、復活したのちも、疑り深い弟子のために傷口を触らせる。肉体への恩恵と受苦の物語である。ただそれでも、復活の直後にはこうも言った。私に触れるな。触れ合いを続けた彼がそう告げるだけに、触れるな、という言葉は強く響く。魂は、手によって触れられるものではなく、魂によってのみ近づくことができる。
しかし、堅固なマグダラのマリアが思わず主に触れようとしたように、私も触れることによってしか生きられない。触れたい、触れられたいという自分の欲求は、声を嗄らして泣いても、胸に打ち付ける石の痛みによっても消すことができない。人はその苦しみと共に生き、その苦しみがあるから生きてゆく。触れることに日々飢えていかなくてはならない。私の体は飢えに慣れることが必要だ。そのためには、3日間の断食よりも、毎日の少食が大事である。ちょうど、すべてを押し流す瞬時の土砂降りよりも、柔らかく降り続く小雨のほうが大地にとって有益であるように。

ヒエローニュモスがようやく落ち着きをとりもどしたとき、彼は一頭のライオンが自分を覗き見ていることに気づいた。時々、遠くから聞こえてくる獣の唸り声はこのライオンのものだったのか。頑なな彼はライオンを見ても怯えることはなかったが、追い払うこともしなかった。そして、ライオンの面持ちに、自分と同じく、何かしら痛みを堪えている様子を見て取った。やがて彼はライオンが足を痛めていることに気づき、ライオンを手招いた。巨大なライオンが彼に体を預ける。ヒエローニュモスがライオンの身体の重さと熱に親しみを感じたのは、この砂漠の獣が自分と同じく孤独を生きていたためだったかもしれない。彼はライオンの前足に棘が刺さっているのを見つけ、それを抜いてやった。その後、ライオンは死ぬまで彼の側に仕えることとなった。

痛みと痛みからの解放、避けがたい身体と心の触れ合い。ライオンの威嚇と馴致、アルテミスの苛烈な仕打ちと冷たい誘惑。森の中だろうと、砂漠だろうと、風の吹き通うこの世界に生きている限り、痛みから、触覚から逃れることはできない。触れることの禁忌を告げてよいのは神のみである。人には、いかにして触れるか、だけが求められている。

図版:アルブレヒト・デューラー《悔悛の聖ヒエローニュモス》(1496年頃)プチ・パレ、パリ市美術館蔵。