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#328

オンラインのリアル
― 早川克美

オンラインのリアル

 2020年の世界は新型コロナウイルス感染の脅威によって、あらゆる事象に対し、変化を求めている。56日までとされていた緊急事態宣言も延長が必至の状況、人々の活動は自粛を余儀なくされ、「#STAY HOME」のコピーが強い拘束力を持って私たちに重くのしかかっている。テレワークが、近い未来の働き方から一気に現実のものとなり、慣れない在宅勤務、オンライン会議に疲労してきている方も少なくないだろう。疲労は、急激な(というよりほぼ強引な)生活変化に対応しなくてはならないことと、オンラインのやりとりが主となるコミュニケーションのありかたが原因だと思う。

  そこで今回は、オンラインのコミュニケーションの課題と展望について、オンラインのコースを学部と大学院で運営している者として、雑感を述べてみたいと思う。

 インターネットのオンライン上のコミュニケーションの課題として真っ先に思い浮かぶのは「身体性の欠如」についてだ。人間は身体があるからこそ物事を認知したり、思考したりすることができるわけで、その「体で感じる」ということを、人間の身体性(Embodiment)と呼ぶ。人間は、体に埋め込まれた様々なセンサーを通じて、外界を知覚し、他者とのコミュニケーションを行っているのだ。それは連続した複合的な豊富な情報だ。しかし、オンライン上ではその身体のセンサーを使わなくても単純化した記号操作で処理することが可能となってしまう。これが「身体性の欠如」だ。

 身体を持つ人間とネットの限界については、2002年にヒューバートL・ドレイファスの著書「インターネットについて 哲学的考察」で指摘されている。たとえば、遠隔授業によって、自分の部屋から一流の教師による授業が受けられる。授業を受けるという経験が、声や文字・図表・身振りという情報だけならば確かにオンラインの学びは効率的で有用だ。しかし、ドレイファスは、伝達内容が高度になればなるほど、その場に居合わせることの重要性を指摘する。アイコンタクトや周囲の反応、教育における関与と、そこで生まれる何が起こるかわからないといった状況の共有、つまりリスクを伴ったコミットメントは、その場に居合わせることで体感できる。これこそがコミュニケーションの本質なのだ。オンラインでは、学習者は多くの場合傍観者となり、対面ではあたりまえであった、「自らの選択に責任を持つ感覚」から遠ざかってしまう。

 このように、オンラインはバーチャル(仮想)世界で、日常の対面~リアル(現実)世界からは縁遠く課題が多いことを示唆する議論は今も盛んに行われている。

 しかし一方で、基礎情報学を説く西垣通は、311東日本大震災を契機として、バーチャルとリアルの二項対立の議論は、次第に変わっていくのではないかと指摘している。たとえば、津波の被災地のリアルは、テレビや新聞報道が伝えるよりも、ネットの中にはるかに深い悲嘆の言葉を見出すことがあった。オンラインの情報が私たちのリアル、つまり日常を支えるようになるだろうということがこの事象から考えられる。ただ、西垣は、「われわれ一般人がネットを通じてリアルを形成していかなくてはならないとすると、これは決して容易なことではない、「情報」という存在についての深い洞察と粘り強い人間努力が不可欠なのだ」とも説いている。

 ここまで書くと、そう、筆者が運営しているオンラインのコースはどうなんだ、という興味をお持ちの方が出ていらっしゃるかもしれない。身体性への課題と、オンラインとリアルの関係については、コースの設計時より根幹をなす課題と認識しており、これらをクリアし、いかにして知の獲得を促すことができるかを授業デザインのテーマとしている。筆者が考えた方法は、社会構成主義を背景とした、「体得」の仕掛けだ。社会構成主義とは「知は個人の中ではなく集団の中でわかちもたれている」という考え方だ。

 「体得」の仕掛けは、わかちもたれる集合知の形成過程に、自分が能動的に深く関与しているという実感を認識させるために、問いを生み出し、答えを統合するプロセスを一つ一つ視覚化させながら踏んでいく方法をとっている。例をあげると、一つの課題では、前提となる知識情報をオンデマンドの映像教材で学習後、ある事象に対し、自らが設定したテーマに沿って調査を行い、その結果を考察して仮説を立てて、オンライングループ内で披露する。それぞれの発表スレッドが立ち上がり、メンバーは各スレッドで質疑を交わし、議論を深めていく。一定の時間を切って議論の統合を全員で行い、課題はクリアとなる。知識の習得、修得は、記号的な情報伝達で一定の内容までは可能であり、これは集中的に映像教材が担う。その先、一人一人のワークで情報を収集、主観に根拠を与えて思考として確立する。それをオンラインで発表させることで、思考を外部化・視覚化し、個人の中から集団での議論という客観・俯瞰の段階に進む。そして議論を深め、意見の統合によって成果を得る。

 この一連の経験は、あえてWeb会議を使わず、テキストベースで行わせる。発言数が公平となり、思考の外部化・視覚化に有効だからだ。このように、ただ教室に座って授業を受けている状態よりも、ステップごとに「自らの選択に責任を持つ」ことを求められるため、主体的な参加意識のもとに、知の体得が実現するという仕掛けだ。集中~収集~拡散~俯瞰~集約という、意識の変化は身体のセンサーを刺激するだろうし、メンバー間のパラレルで平等な議論展開は、相手の立場を想像する感受性に働きかけるだろう。

 また、学習環境においては、フォーマルな学びの場ばかりでなく、情報交換や教え合いの可能なインフォーマルな場も予め設置しておく。運用は学生に任せる。すると、ハッピーアワーがWeb会議を使って自然発生的にスタートし、そこでの交流が、フォーマルな場に戻ってからの親近感の醸成に大きく貢献している。

 つまり、オンライン上のコミュニケーションにおいては、オンラインで得られる情報の性格づけをかなり入念に計画することで、新たな身体性の獲得が可能ではないか、ということが筆者の提案である。個人が受け取る情報によるゆさぶりと、個人が発信する(参加する)チャンスを提供し、大きな流れはあっても、何が起こるかわかならいという余白の設定は、リアルの体験を彷彿とさせるばかりか、オンラインだからこその体感が得られるはずだ。

 あちこちでオンライン飲み会が開かれているそうだ。中には、「焚き火」の映像をただただ流してそれを参加者で見つめながらぽつりぽつりと語り合うという素敵な演出の会があるらしい。リアルの「その場でしか味わえない」経験と同じ様に、オンラインだから実現できる物理的距離を逸脱した空間と時間の共有がそこにはある。オンラインとリアルの対比だけで議論していては、今起きつつある奇跡を説明できない。新しいリアルの獲得はもう始まってるのだ。その芽を育てていきたい。

参考:

ヒューバートL・ドレイファス「インターネットについて 哲学的考察」2002,産業図書

西垣通「スマートフォンと哲学が出会うとき●ソーシャルメディア時代の基礎情報学(1)ー今なぜ「基礎情報学」なのか」2011https://www.advertimes.com/20111208/article44122/ 202051日閲覧